U先生のつぶやきで知った、三田誠広氏の「炎の女帝 持統天皇」がアマゾンから送られてきた。さっそく新平家物語を横に置いて、読み始めた。
古代史を舞台にした小説は、黒岩重吾氏や、永井路子氏の作品が一部カバーしているが、不思議なことに持統天皇を正面から扱っている小説は見かけなかった(漫画では里中満智子氏の大河漫画があるが)。そして、出会った「炎の女帝 持統天皇」に感激!でも、何故持統天皇は小説の題材になりにくかったのだろう?その歴史的偉業は強烈なのに・・・
日本人の多くは、いかにして天下をとったかとか、どのように戦ってきたかという、「どうやって」というところに関心を持つのだろうか。自分のサラリーマン時代を振り返っても、基本は与えられたテーマをどうやって解決するかということが大きかった。日本が経済発展を遂げた戦後、何か上昇志向の時代背景が、「どうやって」志向を促したのではないだろうか。
ところで、持統天皇はどうだろうか。謀略と外交的に極めて不安定な時代の中、生き抜くこと自体、「どうやって」志向の興味も尽きないが、持統天皇は初めから生粋の天皇家の主流派であり、生まれ落ちた時から(大化の改新の645年の生まれ)覇王であることが半分くらい約束されていた。
そして、天皇家の歴史を考えてみても、歴史上1,2を争う強権で、ある意味で日本の原型を作り上げた方と言ってよい。そこには、、「どうやって」志向というより、自分は何か?国家とは何かといった基本的なアイデンティティの問題が中心なのだ(逆に言うと、この鉄のようなアイデンティティで生き抜いたともいえる。)
したがって、「どうやって」志向ではなく、「私は何?」志向の人物かもしれない。
三田誠広氏の小説といえば、芥川賞受賞作の「ぼくって何?」が印象的である。年齢的には私の兄貴といった世代で、当然ながら全共闘世代である。その時代に「ぼくって何?」を書いたのだ。そして、時がたち、その延長上に持統天皇の小説。今の日本の状態を考えると、それこそ、「どうやって」志向だけではだめで、強烈な私は何か?といった問いかけが必要な時代ともいえる。それが、東日本大震災や最近の外交問題で顕著になっているようにも思える。
ちなみに、生き甲斐の心理学でも、私は何かという問いかけを大切にしている。こころの健康のためにも、答えはないかもしれないが、考えること自体は健康にも良いようだ。
私は何か? 1/10