イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

なんとなく正しい流れに乗っている感じ・・・(言語化 10/10)

2016-04-25 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 自分の傾向と渇望への方向に定まっていると、思わぬ人の助けがあったりで、不思議に物事がとんとんとスムーズに行ったりする。ついているなという感じだろうか。おめでたい方と言われそうだが、そういう時があるように思う。

 3V(Visualize, Verbalize, Vitalize)といっても、はじめからビジョンが鮮明であったり、すぐ目的が達成されるというより、朝顔が成長するように、光に向かってスパイラル・アップするように、だんだんと言語化が進み、ビジョンが明確になってきて、やる気が増加すると思う。ビジョンが大きなものであればあるほど、そんな傾向は強い。

 例えば、私は「生き甲斐の心理学」を16年学んできたが、はじめは心理カウンセラーにでもなれたらと勉強を始めたが、そのビジョンは少しづつ変わってきている。心理学の知識が深まったことや現実吟味力もついてきて変わってきているようだ。そして、たぶん今のビジョンは他者からはかなり見えにくい。16年の年月の差というのだろうか。

 また、縄文時代について興味をもち勉強を始めたことも、当初からビジョンが明確だったかといわれるとそうでもなく好きで始めたのが、次第にビジョンが明確になり自分の役割がついていきて、見えるものも豊かになってきた。

 さて、昨日は縄文小説についていろいろアドバイスを頂ける貴重な体験をした。何でもそうなのだろうが、自分の思い込みや癖、無意識に違和感があるところは他者から指摘されると深まるっことが多い。他者に迎合するというのではなく、意識化が進み言語化が進むのだ。

 以前、誰だったか大理石から彫刻をつくる芸術家が、彫っていくことで作品を取り出している・・・ぼんやりした記憶なのだが、そんな表現をされていたように思う。たぶんすべての芸術にも当てはまることかもしれない。作品と意識化の関係というか。3Vとスパイラル・アップの関係というか。

言語化 10/10

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祖先はリズムを持った詩歌で言語化してきた!(言語化 9/10)

2016-04-23 | 第七章「光と復活体」

 今朝急に悟った(妄想した?)のだが、人はビジョンを描き行動に移すために意識化・言語化をするのだが、それはリズムを持った詩歌のような言語化ではないか・・・。それは、無味乾燥な事業計画書ではないと。

 私たちの祖先は、数万年の歴史を持つ日本語で言語化の歴史を刻んできたと思うが、文字として記録に残されているものでは、残念ながら1300年前ごろの万葉集等が最古になりそうだ。特定の個人が記した万葉集を読むと、いろいろなことが脳裏をよぎる。特に、万葉集に登場する人物は、日本書紀等で生涯の記録がある程度残っていることが多いようだ。

 そして、卑弥呼の詩歌は残っていないが、7世紀の大政治家でもある持統天皇の歌は残っている。持統天皇の言葉が詩歌でしか残っていないということも凄い。例えば、有名な・・・

 春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山

 この歌は、藤原京を作り、そこから天の香久山を望んでいる持統天皇を想像してしまうのだが、天武天皇なきあと本当にご自分のビジョンを抱きつつ、それをリズムを持ったイキイキとした言葉で言語化しているようだ。57577のリズムは爽やかで心地よい。私は、これは縄文時代からの伝統的なリズムだと妄想しているが、このリズムとは何であろうか?

 先日紹介した、オクタピオ・パスの「弓と竪琴」によると、リズムは次それのように考えるらしい。

 「リズムとはただ単に空疎な拍というだけではなく、ひとつの方向であり、意味なのである。リズムは拍ではなく、本源的時間である。」 (弓と竪琴 岩波文庫92P)

 持統天皇は天武天皇の影響もあり易と五行の影響も強かったと思われているが、この歌は私には大津京の天智天皇が抱いていた思想をビジョン化し、さらに律令政治の完成への行動化のための言語化のように思えてならない。歌の解釈は人それぞれであるが、驚くべきほど多くの現代人に愛されているのも不思議だ。言語化の神秘とでもいえるのだろう。

 リズムを持った詩歌に代表される言語で言語化する意味。それはロジャースの人格形成理論4の、人の個性についての達見、傾向と渇望という何かリズムそのもののようなものと結びつくのかもしれない。

言語化 9/10

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まさか・・・を考える!(言語化 8/10)

2016-04-22 | 第一章「意識と知覚」

 今も時々、想定外という言葉を聴く。固い言葉なので、まさかの時といったほうがピンとくるようにも思う。何かに向って進むとき、不思議に、そうした真空地帯のような時がくることがある。

 このところブログを通して思索してきたことに、信じて観えなくなる問題がある。通常ストレス曲線・・・例えば何かへの不安感が湧きおこれば人は立ち止まり慎重になる。ところが、何かを信じて猛進する時、その不安感が不安感として感じられない。立ち止まらず慎重になることもなく突っ走る。そして、突然のまさかが起きてしまう。

 自分の人生においても、こうした経験があった。おそらく、そして、こうしたことを経験した方は少なくないように思う。

 そのあとは結構つらい言語化・計画化・行動化がつづく。

 心理学的に、信じて観えてくるのと反対に、信じて観えなくなるという領域があることをしっかり頭にいれとくことが大事だと思う。

 そして、まさかの時が来たときに、狼狽えずに自然体で対処できるように普段から備えていればと思う。まさかの時は誰でも破滅的になったり、傲慢になったりする。そうした時こそ、自然体で自他肯定の道を進められれば幸せだ。

 さらに、まさかを回避するためには、何か感受性訓練のようなことがあったほうが良いように思う。それはいったいどういうことになるのだろうか。

言語化 8/10

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言語化のときの方向感覚!(言語化 7/10)

2016-04-21 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 昨日の空想の故郷について付け加えることとして、危険な方向性の問題がある。

 楽しい空想からの言語化は、世のため人のためになることも多いが、逆に他者を極端に困らせたりすることもある。

 傘をさしてスーパーマンのように空を飛べたら橋の上から飛び降りようかと空想することは実に危険。あの時下を見て恐怖感を感じたことが救いだった。命の歯止めだったのだろう。

 生き甲斐の心理学を学んでいくと、自己愛の問題として自己愛パースナリティ障害を学ぶことがある。本人はあまり自覚がないのだが、周りがどんどん傷ついていくようなことがある。私の場合だったら、歯止めがなく傘をさして飛んでいくようなものだ(この場合は私が傷つく)。

 幸福曲線が見えて、ストレス曲線が見えにくくなるとき、私は時々自分でいうところのコンパスをイメージする。

 自己肯定・他者肯定 理想的

 自己肯定・他者否定 傲慢?

 自己否定・他者肯定 卑下?

 自己否定・他者否定 破滅?

 極端に傲慢になったり、卑下したり、破滅的だったり・・現実を吟味していくと、あれっと思う時があるかもしれない、そのときもう一度感謝のこころを自問自答したりする。

 メリーポピンズは私の好きな映画だったが、傘をさして幸せをはこびたいものだ。

言語化 7/10

 

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自分の空想の故郷を考えてみる!(言語化 6/10)

2016-04-20 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 昨日のつつじヶ丘の勉強会で、自分の空想の原点のことをちょっと振り返ってみた。言語化を考える上でも、自分のこころの源泉というか傾向と渇望というか・・・そういったものがどんな起源だったかを考えてみることは大事なようだ。

 今も、縄文小説を考えたり、そして10年以上ブログを書いたりしているが、そのネタにこまることはなかった。その理由の一つが、恐らく、空想好きということがあるのだと思う。そして、空想の果てにちょっと危険な自分を感じてはっとしたことすらある。

 小学校低学年のころに、四ツ谷の駅の上にかかる橋の上から、傘をさして飛び下りたらどうか・・・甘い空想で橋の下をのぞきぞっとしたこともある。高校一年くらいになって、木刀を作って一人チャンバラの空想をすることがあったが、ふとこれで良いかと反省したことも(笑)。

 空想の源泉は、幼いころから親しんだ私の家と、隣の祖父母の家に挟まれた庭だったようだ。

 

 上の写真は、祖父母の家から庭と私の両親の家を撮ったものだ。昭和30年代の前半くらいだろうか。チューリップが咲いているが、中央の白い縦・横の線上に見えるところは、祖父母の戦前の家の土台。空襲で焼けても残ったものだ。

 そして、この庭で夏は井戸水を入れたたらいで水遊びをしたり、スイカを父と井戸につけたりした。庭の昔の家の土台をトンカチで叩いて遊んだり、赤土の地面を掘ったりする不思議な体験。庭にやってくるスズメをとろうとしたり、アリや毛虫、蚊やハエ、足長蜂と格闘したりも。

 さらに、少年時代になると、紫陽花の葉やら土管を埋めた池の微生物を顕微鏡で眺めたり、貯金をはたいて買った天体望遠鏡で土星を見たりもした。また、狭いながらも、キャッチボールやゴルフの真似事をしたり、たき火は毎日のようにしたが(今はできない)、それが高じて飯盒炊爨やキャンプの真似事までした。

 私の小宇宙がこの庭にあるように感じている。そして、それは今の私のこころのどこかにあって、縄文小説の源泉になっていたり、生き甲斐の心理学の源泉になっていたりする。 

 因みに、昨日の勉強会では私が土台をトンカチで叩いたり、穴を掘ったりしたことが縄文への興味と繋がっているとの指摘が・・・本当かもしれない。

言語化 6/10

 

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