「eat, pray,love(食べて、祈って、恋をして)」というのはある女性作家の小説らしいが、1000万部を売ったという。
その著者が昨夜のTEDカンファランスの講演をしていた。この映画は全部ではないが、最近テレビで見た気がする。ジュリア・ロバーツの主演の映画である。
ブロンドの美人の作家Elizabeth Gilbertの講演のタイトルはYour elusive creative giniusというのであった。
elusivieという語について伊藤穣一さんの解説があったが、なんだかよくはわからなかった。邦題は「創造力の秘密を探る」となっていた。
エリザベスは「eat, pray,love(食べて、祈って、恋をして)」でとても成功した作家となったので、他の人から「この小説よりも成功するような小説は書けないよね」といった慰めの言葉をしばしば受けるのだという。
本人もそうかもしれないということを言ってはいたが、それでも自分にできることをするのだと言う。
そして、いい小説を書けるのはある意味でどこかから妖精が自分に降りて来て、書かせると考えれば、自分に対するプレッシャが少なくなり、またいい仕事ができるかもしれないという。
少なくともどうやって自分に対するプレッシャを少なくするか、これは成功した作家のさらなる成功の秘密のひみつであるかもしれない。
村上春樹さんのようにミリオンセラーを出す作家の人知れぬ悩みなのかもしれない。
一度、この項目で折角入力をしたのに、すべてキャンセルされてしまった。残念である。再度あまり長くならない範囲で入力を試みる。
インドのバンカー・ロイの話である。はだしの人々にソーラー発電の技術を教えて村を電化する。それもbody languageしか通じない中年以降の女性に教えて彼らを発電技師にしてしまう。
ロイは男性には信頼をおいてはいない。いろいろな知識や情報を広めるには女性に話せばいいという。ロイはソーラー発電と生きていくために最低必要な水源の確保を最重要事項としている。
簡単に話を聞けるものならば、行って話を聞いてみたいと思ったほどである。しかし、インドで最低の条件としてのソーラー発電での電気の確保と水源の確保ができたら、次にやらねばならないことは何であろうか。
そういう段階にインドの貧困層は達していないのかもしれないが、そういう時期はやはりいつかは来るだろう。その見通しをどのようにしているのか知りたいと思った。
子どもたちは昼間は働いて、自分の生活を最低限支えているので、夜に学校を開いてはだしの子どもたちを教育をする。壮大な気の長い話である。
やはり最終的には教育が生活を、意識を変えるのであろう。
Deceptionとはだますことである。人にだまされて愉快のことは一般にはない。
ところが、Enjoy deceptionと言われると「えっ」と思うが、手品は実はだまされること楽しむことだと言われるとなるほどと納得する。
今週のスーパープレゼンは最新のコンピュータを使って、手品をしている人の話しであった。もっとも聞いていて何がその方の主張であったか、もう数日経ったら覚えていない。
後で、Jyoi Ito さんが普通に教育でみんなの教育で記憶に残るのはたったの6%だと言っていた。だから、このコンピュータを使った手品をしている人は教育家としても大いに評価されると述べておられた。
好奇心をどうやって掻き立てるか、教育ではそれが一番重要であると私は考えているが、現役の教師であったときに、それに成功したことはまったくなかった。
伊藤穣一さんのことをJyo Itoだと思っていたら、Jyoi Itoだったといつかこのブログで書いたが、このころはNHKの放送でもJyoiと英語でも出るようになった。ひょっとしたら、はじめから出ていたのかそれはわからない。
担当者が私のブログを見て、その英語名を入れたなどとは考えないが、JyoなのかJyoiなのかは本人の発音を聞いていてもなかなかわからないものである。
TEDカンファランスのNHKの番組で今週の月曜にsecret collectorの人が話をしていた。その後の解説でsecretのはがきを書く要領として、3つのことが上げられていた。
1.Be brief (簡潔に)
2. Be legible (読みやすく)
3. Be creative (創造的に)
これはどんな文章を書くときの心構えとしてもいいだろう。
ところで、この中でlegibleというは「読みやすい」という意味だろうが、英語ならreadableとも言えるだろうか。そこで気になったのはなぜlegibleというような語があるのだろうかということであった。
ドイツ語では読むとはlesenであろう。lesbarという語があるのだろうか。
ということで辞書を調べると確かに存在している。訳としては「判読できる、読みやすい」という訳語がついている。
フランス語では読むはlireであろう。対応した形容詞はlisibleである。そうするとどうもこのフランス語のlisibleにlegibleは近いと思われる。
英語の中に読むにあたる語の関連語として、 l で始まる語がなにか大きな辞書を調べれば出ているのかもしれないが、私のもっているポケット辞典の中には出ていない。
もう何十年前に岩波のPR誌「図書」にlesenは「選ぶ」とか「摘む」という意味があるのだと書いたを読んだことがあった。その例として、ぶどうの収穫のAusleseとかsp"atleseとかが挙げてあった。
これらはいまではドイツワインの等級Qualit"atswein mit Pradikat(法律的に加糖を許されないワイン)のうちの一つになっているが、もともとはAuslese(選り摘み)とかSp"atlese(遅摘み)とかという意味である。
ちなみにQualit"atswein (ohne Pradikat) だと加糖が許されるので、私たちがドイツワインを飲んでこれは甘口で旨いななどと言ってラベルを見ると、ただ単にQualit"atsweinとある場合が多い。それくらい私のような下戸にはワインの味はわからない。
ところで、食事のときなどに水の代わりに飲むワインはTafelwein (table wine) と言われる。これはいわば水の代わりに飲むワインだからお客には出さないと思う。
ついでに言うとvorlesenは講義をするという意味であるが、前で (vor) 読む (lesen) ということから講義をするという意味となる。
いまなら教授が講義ノートをつくってきて読み上げて、学生にそれを書き取らせるなどというタイプの講義をすれば、学生から総スカンを食いそうであるが、昔はテキストなどあまりなかったので、そういう講義でもすることが大学の大きな役目であったのかもしれない。
もっとも私などは講義(Vorlesung)などというと偉そうに聞こえるので、授業がある(Ich habe den Unterricht.) と言っていた。
今日もはじめの話題からおおきくはずれてしまった。
これは以前にも紹介したと思うのだが、そのときはなかなか理解できなかった。
ある神経医学生理学者が脳卒中にかかった。その体験を語ったものである。左脳と右脳はその働きが違い、合理的な思考とか言語とかは左脳によっている。
ところが脳卒中でその左脳が障害を受けたということらしい。右脳は感情とかなんだか知らないが、情緒的なところを受け持っているとか。そしてその方の経験ではとても普段では経験できないような幸せな感覚を体験したらしい。
その話を聞いていると私はチベット仏教の修行者が経験したという、神秘体験とかに似た話だと気がついた。この修業者として実際に私が文章として読んだことがあるのは、中沢新一の「チベットのモーツアルト」だかに載っていた修業中の幽体離脱のシーンしか知らないが、どうもそれに似ている話も出てきた。これはオウム真理教信者の体験談とも似ている。
そういう秘めた能力というか潜在能力を人間が持っているということをこの神経生理学者は語りたかったらしい。そして右脳が支配する世界では争いも何もなく、人間は幸せ感に浸ることができる。
脳はいろいろな能力をもっており、場合によっては幻を見たり、幻聴を起こしたりもする。そういうものとして右脳があるということは脳卒中にあった人の体験であるだけに妙に納得させられるものであった。
この脳神経生理学者は8年の年月を要したが、リハビリを経て、もとのように復帰することができたので、TEDカンファランスで自分の体験を語ることができた。
NHKの「100分で名著」でピ-ター・フランクルの「夜と霧」を取り上げていた。フランクルは精神医学者だったと思うが、ユダヤ人で強制収容所の生き残りである。
その第2部の放送を私は見たのだが、「人が人生の意義を見出すのではなく、人生の方がその人を待っている」というようなことを言って、同じ強制収容所にいた、二人の人が絶望の縁にいて自殺を考えていたのを救ったという。
ところが、私には人生の方がお前を待っていると言われてもそれが何を意味するかわからない。お前のやりたいことでし残したことがあるだろうとか、生き延びたら、お前の家族がどこかで待っているだろうというのなら、わからないでもないのだが、「人生がお前を待っている」とはどういうことなのか。
番組ではそういう突っ込みを入れる人がいなかったが、知りたいところであった。あまりに衒学的なものいいではないのか。どうも私はピーター・フランクルにつっかかるようなところがある。
フランクルの「夜と霧」で人間というものの奥深さを見せられたのは、収容所でパンが足りないときに自分の分を分け与える人がいたということをフランクルが書いているのを読んで、人間はぎりぎりのときにでも人のために尽くす人が存在するのだというのを読んだときである。
そういう崇高な感覚は残念ながら、私にはもてそうにない。
いつだったかこのブログでもフランクルに突っかかるような記述をした覚えがある。はしたないこととは思うが、私にはそういうところがあり、大人になれない。
人生の意義を見つけることなどできはしない。そういうものは人生を何年生きていてもわかるものではない。そう考えている。だが、自分のしておきたいことはある。それをこれからの人生である程度でもすることができるかどうかわからないけれども。
昨日から、TEDカンファランスの再放送がはじまった。
昨日はその第1回の再放送であった。Derek Siversのプレゼンを伊藤穣一さんがoffbeatというキーワードで説明していた。
offbeatを伊藤さんは「いい意味で風変わりな」と訳されていたが、beat(唸り?)からはずれたということから「風変わりな」という意味に使われるのだろうか。
ともかく、ある現象ではリーダーがいて、それの同調者(フォロワー)が出てくることが大切なのだという。そしてそのフォロワーをいずれも同等に扱うことが大事なのだという。
プレゼンそのものは3分間のビデオで誰かリーダーが一人で裸で手足を動かして踊っている。そのうちにその踊りに一人フォロワーが出てくる。その段階ではまだ二人がまわりからは訳がわからずに踊っているに過ぎない。
ところが、しばらくして2,3人のフォロワーがその踊りの輪に加わる。そこで、その後にその踊りの集団が加わる人が急に増えていく。
そのビデオから、どういう教訓を引き出すか。どこかで運動なり、社会現象なりが量的にも変わっていく。このことをビデオで視覚的に訴えたプレゼンであった。
そこで考えたのだが、私などもある種の仕事をはじめている。リーダーという語はおこがましいが、それを密かに行っているが、だがフォロワーがほとんどいない。もちろん、そういう運動なり、社会現象を引き起こそうとはしていないのだが、それでもそういうことができればと密かに望まないでもない。
どういうことを目指しているかというと、別に社会現象を引き起こそうとしている訳ではなく、数学とか物理とかのある種の教育活動への提起とかそのための例を示したいと思っている。
だが、私と同じような思いの方は居られるのだろうが、フォロワーが出てくる運動にまではなっていない。そこがどうしてかを考えなくてはいけないのかなと感じた。
私のやっている、「数学・物理通信」の発行では少数だが、すでに強い支持を受けていると考えている。だから、こちらの活動ではフォロワーがいないとは思っていない。
もう一つの私の目指していることは数学や物理ののe-learningのコンテンツの作成運動その他の方面のことである。これにはなかなかフォロワーは現れない。そもそも私がどんなe-learningのコンテンツをつくっているかさえも世間にはあまり知られていないのだから。
この根本原因は大学という枠とかの、ある種のセクショナリズムのせいだと考えている。
月曜日のTEDカンファランスのプレゼンは公衆衛生学者のウィルキンソンの先進国20カ国では、生活格差の小さいことと国民の生活幸福度の相関が大きいというプレゼンであった。
いろいろなデータを詳しく調べた結果らしくて、スウェーデンと日本が違った理由で生活格差が小さくなっており、高齢社会であるとか、幸福度が大きいということをデータで示していた。
ウィルキンソンは「アメリカンドリームを実現するにはデンマーク住まなくてはならない」という皮肉な言い方をしていたので、会場から笑いがもれていた。その統計相関の示すところでは一番住み難い国はアメリカであるということは変わらない。
アメリカンドリームとは如何に貧乏であっても大統領になったとかいう話とかに代表されるが、そういう例はほとんどないことがわかる。
妻は日本は格差の少ない社会なので、湯浅誠氏とかがこのごろ大きな生活格差ができてきたとかいうのに批判的な意見らしくて、なんとかかんとかいってもまだ生活格差が少ない社会だという意見である。
それに対して、確かに1960年代から70年代末までに生まれた人たちにはそうであったかもしれないが、やはり生活格差はだんだん顕著になってきたのではないかというのが私の意見である。
日本においては生活格差はまだそれほど大きくないかもしれない。しかし、それがだんだん大きくなって来ている。少数の富裕層と多数の低所得層の二手に分極し始めている。そして、一度、社会のレールから外れると復活の可能性はほとんどない。
いつだったか、カナダ人かアメリカ人のE大学の先生が、ある集会で日本では一度落ちこぼれると復活のチャンスが与えられないが、欧米ではまた復活のチャンスが与えられると言われていた。しかし、これも原則としてそうかもしれないが、現実にはかなり困難なことであるという風に解釈をすべきなのであろう。
Jyoi Ito (伊藤穣一:MIT メディアラボ研究所所長)さんがこのウィルキンソンのプレゼンをinsigtful(本質を衝いた)と評していたが、まさにその通りであろう。
NHKの「100分で名著」を毎回見ているわけではないが、昨夜のパンセの最終回を見た。生物学者の福岡伸一さんが仏文学者の鹿島茂さん以外にゲストとして来られていた。
福岡さんは「人間の体は刻々一刻と変っているので、自分では同一人物と思っているが、体の組織や脳の組織はまったく入れ替わっており、それらの組織の面からいうならば、同一人物であるとは言えないほどである」という。
確かに体や脳の組織はそうであろうが、だからといって、人間の自己同一性がなくなっているわけではない。私はむしろそちらの方の観点を強く感じた。
だから、いくら福岡さんのいうことが正しくても、それにもかかわらず自己同一性をもっているという、その事実をどう考えるかを述べなくてはならないのだと思う。だが、そのことは論点がずれていくからだろうが、述べられなかった。その点に不満が残った。
デカルトとパスカルとの対比もこの時間には簡単に語られた。私は前にこのブログでも述べたようにデカルト派であり、パスカルには組しない。ただ、考え尽くした上でもどうなるかは分からないと説く、パスカルにはちょびり共感しないでもない。
だが、デカルトの考え尽くして結論が出れば、それが間違う場合もあるではないかといわんばかりの評価は間違っているだろう。間違っている場合にはそれはまだ考え尽くしていないのである。
一応の結論はデカルト的な立場で出す場合もあろうが、それはあくまで暫定的なものであり、間違っているならば、あくまで正さねばならないというのが、デカルト的な立場であろう。
ただ、自然現象がすべて解明できるとの期待はもっていない。これは宇宙の現象等での新しい現象が見つかっており、それは現在のところまだ到底解明の予想がついている訳ではない。
そして、そういう謎はもしかしたら、人類の滅亡までに解明されないかもしれないのだ。しかし、人類の滅亡があるとして(それは確実だが)それまで人間の好奇心はそのれらの謎を解明しようとし続けるであろう。そのことを私は信じて疑わない。
愛媛テレビ朝日の看板アナの大沢やすのりさんが彼のお父さんのことを朝日新聞の愛媛地方版に書かれていた。それを読んで妻と話したら、彼のお父さんは妻の今治西高校での同期生らしいとわかった。
やすのりさんのお父さんは西高校時代は生徒会の会長をされた方だという。それでも某国立大学に現役合格されて、生徒会長の経験者が今治西高校ではじめて国立大学理工系学部の現役合格したと誇っていたらしい。
しかし、実はやすのりさんのお父さんの一年上にやはり同じ今西の生徒会長をして、某国立大学理工系学部に現役で合格した、私の従弟がいるので、やすのりさんのお父さんが最初ではない。だが、それはともかくすばらしいことである。もう何十年も前のことになるのだが。
やすのりさんのお父さんの大沢君(失礼、私の方が今西の数年先輩なので)は数学の先生だったらしいが、かなり早い段階で亡くなったので、妻なども驚いていた。まだ妻だって70歳にはなっていない。それはともかく大沢君は今治西高校で野球部の名部長の名をほしいままにした方らしい。
やすのりさんの方ははいうまでまでもなくイケメンの愛媛テレビ朝日の看板アナであり、妻などもファンの一人である。私も1週に一度火曜日には彼の夕方の放送番組を見ている。大沢やすのりアナの今後のご活躍を切に祈っている。
NHKの「100分de名著」のパンセの2回目を昨夜見ていたら、人間は自己愛が強くて、要するに人から褒められたいのだという。
それは目立って褒められたい人もいれば、控え目だということを売り物(?)にして褒められたいと言う人もいるのだという主張らしい。
さしづめ私などは控え目にしていて、それでも人から褒められたいタイプだなと思っておかしかった。いや人から褒められて嬉しくない人などいない。
もっとも控え目にしていて、人に褒められることなどほとんどないのだということをパスカルは忘れているらしい。
それはともかく、自己愛のない人などいない。パンセにははじめそれで自己愛に批判的な論調があるらしいが、結局は人間というものは自分の自己愛からは逃れられないということを100%認めて、人間ってそういうものだと言っているらしい。
人間どこかで自分を肯定できるところがなくては生きていかれない。
昨夜のNHKのTEDカンファアランスはビル・ゲイツの講演だった。彼はいまマラリアの撲滅とか教育に彼の財団の資金をつぎ込んでいるらしい。
マラリアの撲滅も興味深いが、このブログでは教育についてとりあげたい。教育はそれを好まない学者、たとえば、武谷三男、もいるが、実はとても大事な分野だと思っている。
それは教育によって、すばらしい人々を育てることができれば、社会が必ずよい方向に変って行くからである。だが、私の関心のある、故武谷三男は学校で教育を受けることを嫌った。
これは多分個々の個人の自発性を奪うということを心配したのであろう。人から、それが教師であれ、誰であれ、押し付けを嫌った武谷らしいが、彼も研究上でグループのメンバーに研究方針を押し付けたと思われており、そのために核力グループは解散の憂き目にあった。
実際に武谷のグループの指導方針がよかったのかはなかなか判定の難しいところであるが、研究の方針を押しつけた、多分そういう風に核力グループのメンバーからはとられたのではないかと思う。
話がとんでもない方向に行ってしまった。元に戻そう。
ビル・ゲイツはいう。若い先生がすばらしい教師か。No. 若い教師でいろいろと進歩が見られるのは新任の3年まで、あとはまったく進歩しない。修士号をもっている先生がいい先生か。No. 統計で見る限り最低の先生が修士号をもっている教師だと。
これはアメリカの話で日本の話ではないだろうが、それでも多分そんなに日本でも違ってはいないだろう。
ある優れた学校か教師の集団があるのだと話していたが、よくはわからなかった。だが、ビル・ゲイツが教育を重視していることはわかった。優秀な教育を広めて行きたいとの気持ちも伝わった。私も彼の主張に全面的に賛成である。
確かに政治、経済、工業、科学技術も、はたまた大学も日本の現状ではどうなることかと心配になるばかりである。しかし、誰かが社会を変えなくてはならない。
それはどこから変えるか。多分教育以外にはない。そう思って自分にできる小さなことをやっている。
それはやはり人間であろう。それもすべて会社人間ではない、人間であろうか。もっともそういう志の高い人を教育できるのかどうかは心もとない。
多分にそれは単に学校教育の問題ではなく、もっと根源的な家庭環境によるのかもしれない。
NHKのSongsで井上陽水の歌を聞いていたら、古くから有名な誰かの歌だとかいうので、歌っていた歌の文句に
・・・(コーヒーは?)モカマタリ
という歌の文句が出てきた。
いつだったかは忘れたが、京都で学会か研究会があったとき、実は昨年夏に亡くなった、私の友人の物理学者K君と京都四条通から少し入ったところの喫茶店に入った。そこでK君が注文したコーヒーがマタリだった。それまでそういうコーヒーを知らなかったので記憶に残った。K君はマタリはモカコーヒーなんだとそのときに私たちに説明をしてくれた。
K君はこの有名な歌の文句からマタリを知ったのか、はたまたそうではないのかそのときにそういう歌の文句があるのだなどと彼は話さなかったから、今となってはもう分からない。K君はそういうネタを明かすような野暮な人ではなかった。
私などは野暮天もいいところでコーヒーの名前などまったく知らない。よく知られたコーヒーにブルーマウンテンだとかキリマンジェロなどというのがあったかな、などということすらおぼろげである。それほど世の中のことを知らない。
アメリカンなどという薄めのコーヒーもある。私などは頭の毛が薄いので、陰であいつはアメリカンだなどと陰口をたたく輩もいるらしい。
同様なことがカクテルにも言える。ピンクレディだとか青い珊瑚礁だとかいうカクテルがあったかな、なかったかなとこれもおぼろげである。最近NHKのドイツ語の講座でCosmopolitanというカクテルの名が出てきた。そういうカクテルがこれは本当にあるらしい。
それで思い出したのだが、数学者の矢野健太郎氏のエッセイに、あるとき数学者が一斉にどこかのバーに出かけてカクテルを注文したというのがある。そしてそれぞれの数学者たちが自分の薀蓄を披露して、カクテルを注文したのだが、中に一人ワイアーストラウスというカクテルを注文した数学者がいた。
バーのウエイターは注文を聞いてひきさがったが、しばらくしてすみません、ワイアーストラウスはあいにくいま切らしておりますと言いに来た。
矢野先生、本当にこういう名のカクテルがあるのかどうか不思議に思って、件の数学者に後でこっそりと聞いたところ、どうもこの数学者のユーモアの、いたずらであって、そういうカクテルはないだろうということであった。
ワイアーストラウスはドイツ人の数学者であることは数学者なら誰でも知っている。それくらい有名な数学者である。
(2012.6.14付記) カクテルということで思い出したのだが、原爆の父として有名なオッペンハイマーはもちろん物理学者だが、彼はときどきカクテルパーティを自宅で開くことで有名だったという。ときどきこのブログにコメントを下さるN博士は若いときにプリンストンの高級研究所で研究をされたことがあるはずだが、この有名なオッペンハイマーのカクテルパーティにひょっとして行かれたことがあるのだろうか。
今週の月曜の夜のNHKのTEDカンファランスはIntrovertがキーワードであった。
Intorovertなんて英語は知らなかった。後で辞書を引いてみたら、どうも心理学的な用語のようであるが、それでも日常でも使うようだ。
Introvertは「内向的とか、内向性の人」ということであろう。講演をした人は女性の弁護士さんであるが、いまは作家をしている人だった。
字幕がついているが、それでもなかなか全体の意味はよくは分からない。創造的なことをする人は内向的な人が多いので、外向的な人ばかりではなく、自分の内向性を大切にしようという話であった。
Jyoi Ito 伊藤穣一 (この番組の解説者、MITメディアラボ所長)は自分はshyではあるが、内向的ではないと自己分析をされていた。shyと内向的とは違うということらしい。また、人は100%内向的でも100%外向的でもよくなく、半々ぐらいがいいのではないかと話していた。
内向性がいいことだと称揚されたことなどあまり聞いたことがなかったが、世の内向的な人々を元気付けることであろう。人にはいろいろな側面があるものである。