今日は基礎物理学の講義の2回目があった。
微積分の演習がしたいという前回の要望があったので、微積分ミニマムの最後に演習があると伝えた。そうしたら今度は微積分の演習の答えがほしいというアンケートでの要望があった。計算をしてもあっているかどうかを調べられないからという。
ところが微積分を本当にわかっているなら、そういう問いが起こるはずがない。
微分と積分は逆演算なのだから、自分で微分して得られた答えをもう一度積分してみて、それが微分する前の式と一致すれば、答えはあっていることがわかる。
また、積分については積分して得られた関数をもう一度微分してもとの積分前の関数に戻ればその積分はあっている。
こういうことを知ることも講義の一環かもしれない。なんと教育的配慮が行き届いていることよと自画自賛する。もっとも意識してやったことではないが。
ある場合には元の関数に積分した結果を微分しても元の関数に戻らないことがあるが、その場合でも二つの式の差をとると定数差であることがわかる。この定数だけの違いはあってもいいのだ。
これもしばしば起こる場合で元の関数にもどらないといって私なども学生のときに騒いだことがあった。
そのとき先生に尋ねに行くと平然としてそれは定数の差ではありませんかといわれて調べてみるとその通りだったことがある。
これらの学生の反応から二つのことに気づく。まず学生は何がなんでも答えをほしがっている。どこかに答えがわかっているのだと。
もう一つは世の中では「はじめから答えがわからないのが普通なのだ」ということを知ることが必要だ。どうやって答えが正しいのかをチェックする方法も自分で考えてみるという気迫がほしい。
教育として与えられたものをこなしていくというのが日本の昔からの教育だとすればこういう教育は改善されねばならない。創造的な仕事をするためにはこんな教育は捨て去る必要がある。