日曜日の朝日新聞に数学者の新井紀子さんが書いていた。「計算できない数式」という題で。
その題には「自分では」計算できない式と形容詞がついていた。この話は高校生に行っているネット授業に出てくるという説明があった。
「計算できない数式」とは記事全体を読めば、近似値しか求められないような式(無理数を含む式なら近似値しか求められない)ということだと思うのだが、ちょっと誤解を生みそうな表現である。
もし、数式が計算できないということであれば、これは論理的に間違った式だということになる。そうでなければ、計算はできるはずだとは誰にでもいえることだろう。
その後に例としては円周率のパイを7.5の平方根で割ってcos 11゜をかけるという式が出ていた。「これが1より大きいか小さいかすぐにはわからないですね」と書いてあって、電卓で計算すると1.146---と求められるとあった。
それでちょっと考えたのだが、パイは3.14なにがしでルート7.5は2.828よりは小さそうだし、それにcos 11は1に極めて近いだろうから、1よりは大きいだろうと見当をつけた。
もちろん電卓で計算すれば、1より大きいことはわかるのだが、こういう見当をつけることも大切ではないか。
数の計算の見当をつけるということをここで強調したいわけではなく、標題のつけ方が誤解を招きそうだというのが私の今回ブログで取り上げた趣旨である。
短いコラムに文章を書くことは難しい。
大学入試問題で説明が込み入って難しいのはいろいろと誤解を招くのではないかと出題者がいろいろ心配をして注意深く問題の文章をつくるからであり、わかりやすくて、かつ誤解を招かないという両方の要請を満たした文章を書くのはとても難しい。