従兄が歴史にはまっていて、関が原に何回か足を運んでいるらしい。最近送ってもらった関が原のスケッチと手紙では石田三成の方が徳川方に当然勝つべきであったという。私は歴史に暗いので、その真偽の程はわからないが、現地を見るとその感を深くするらしい。「一度ぜひ現地を見に来てみて」と言われているとは妻の弁である。
確かに三成軍の10万に対して家康軍は8万だったとか聞く。それに陣地の取り方も三成軍の方がよければ、なぜ三成が家康に敗れたのかと不思議に思うだろう。
ところがそれぞれに味方している諸大名はどちらが優勢かによって自分の地位を保全したいというような気持ちも働くだろう。そうするとどちらが勝つかは必ずしも単なる数では決まらない。そこが家康のような老獪な者に自分の揺れる気持ちにつけいる隙を与える。
三成は戦いで勝ち上がって勢力を伸ばしてきた者ではない。むしろその経世で頭角を現してきた者である。その才は見るべきものがあったとしても、戦にはあまり強くはなかったろうし、その冷たい政治で反感を多くの諸大名にもたれていたともいう。
その辺の史実は本当のところは詳しくないので間違っているかもわからない。それに大抵の場合には歴史はいつも勝者の書く歴史である。
関が原をいつだったか新幹線で冬に通ったことがあったが、雪がよく降ると聞いた。このときもスプリンクラーで水をまいて雪を溶かしているとかだった。
ともかくも関が原の戦いは西暦1600年で、それから270年近く鎖国が続いて、それで日本が植民地にならずに済んだというとかいう人もあるらしいが、本当によかったかのどうかはまったくわからない。
ヨーロッパではその約180年後にフランス革命が起こり、人権が叫ばれるようになる。それはもちろんブルジョアの人権であり、また一般の人の基本的人権の主張ではなかったろうが、それでもそれが人々の基本的人権への第一歩であったのだろうから、日本では数百年の遅れが生じたことは確かであろう。