昨日、子どもから昼に、いま大阪駅に着いて、これから神戸に向うと電話で連絡をしてきた。これは阪神大震災15周年の記念の集まりに参加するためらしい。
子どもは自分自身も阪神大震災を受けたが、それでもボランティアで神戸の小学校に行ったのは震災の数日後である。そこで風の吹き抜けて小学校の寒い廊下の隅でパソコンからインターネットで情報の収集や連絡をした。
そのときにパラボラアンテナによる人工衛星を経由したインターネット通信で連絡や情報収集等をやっているグループがあるのを見て、とても感激をしたという。これは小学校のグランドの真ん中のテントの中で暖かいストーブがあって、どうも廊下の片隅の寒風のすきすさむ自分のおかれた実状とえらい違いだったと回想していた。
1995年は私にとっても記憶に残る年でその年の三月には東京の地下鉄でサリンを撒くというオウム真理教の起こした事件もあった。
阪神大震災で神戸の町が一部ではあろうが、灰燼に帰したのは私のような年齢のものには遠く1945年に自分の住んでいた町が空襲によって、灰燼に帰したことを思い起こさせた。もっとも空襲の方は人災で自然災害ではない。
その後、何年か経って神戸の町を訪れることがあったが、神戸はほとんど復旧をしてはいたが、それでもまだ震災の跡をそこかしこにまだ見ることができた。