先日ブログの文を修正する暇がないと書いた。もうどれくらい昔になるのかわからないが、中国の革命家で政治家であった毛沢東が彼の選集に入れる文章を常に修正していたということをどこかで読んだ。
これはいいことなのか悪いことなのか。ある意味では意見を変えることもあったという風に思えて感心しないことのようにも思える。一方でそれは常により正しい方向への試みであるから、望ましいことのようにも思える。
一方、小さな言い回しは修正したかもしれないが、武谷三男は文を修正しないで彼の著作集に入れている。そうすると広島、長崎に落とされた原爆は日本の軍国主義を完膚なきまでに吹き飛ばしたというような(この言葉は正確ではないので原書にあたってほしい)文を書いたということで「武谷はすごくむごい奴だ」というような人も出てくる。
「武谷はすごくむごい奴だ」ということを本当だと思う人もいるであろうが、彼が2度も特高に捕まってその迫害に苦しんだことを知って、彼の文を読むとまたちがって見えるだろう。
武谷はセンチメンタルとヒューマニズムとを区別した。日本ではセンチメンタルをヒューマニズムと混同することがよくあるから。もっともそれがどうちがうのかはなかなか区別し難いところもある。
大学の英語教育であまり学んだことはないが、snobという概念とsentimentalという概念を学んだように思う。ところが、現在の私にはsnobとsentimentalとがどういう風のものであったかについてはっきりしない。いや、これはそれを学んだ当初から私にははっきりしなかったのかもしれない。
ともかく私は自分の書いた文章を修正したいという方に属している。