今日の朝日新聞に日展の書の分野の篆刻部門で入選数が派ごとに割り当てられていたとの報道があった。
文展時代から数えると今年は106年目であるという。日展の応募の分野がいくつあるかは知らないが、どの分野にもそういうことはあるのだと思われる。
思われるとしか書けないのは書の篆刻部門でようやく密かにある審査主任の発した文書のコピーが新聞社の手に入ったからわかったが、そのほかの分野ではそこまで秘密を公にする人がいないと思われる。
そしてそのような慣例をおかしいとはその分野の人は考えては来なかったからだと思う。それで文展以来の日展の歴史が始まってようやく100年にしてその一部が公になった。
この指令とか申し合わせがおかしいのかどうかは立場によってちがうだろう。多分に誰が見ても文句なしに入選する価値のある作品はもちろんあるだろうが、そこまで秀逸ではないが、それ相応に優れた作品中には互いに甲乙つけがたい作品はあるだろう。
そのときに派ごとの入選作の数が決まっていれば、その選考に一定の基準が得られることになる。ところが他方では応募者個人にとっては競争相手の作品よりは自分の作品の方が優れていると思いたいものだし、実際にそう思っている人も多かろう。
そのときに派ごとの入選作数が決まっているとすれば、それは公平でないとの不満の原因となる。それらのことをどう考えるのか。
しかし、公平とはなかなか決めにくいことではある。もっともそれだからと言って、派ごとにあらかじめ入選作数が決まっていることをよしとすることはできないだろう。