人工知能AIが極度に進んで2030年とか2045年に人間の知能を超えるとかの記事を朝日新聞で読んだ。
わたしはあまりそういうことには心配をしていない。もっとも新聞はそういう表面的なことに触れるだけでもっと突っ込んだことを知るには不都合である。
外国語を勉強する必要がなくなるとか科学の研究をする必要がなくなるのかどうか。一番気にしているのはIT企業に勤めている、子どもが将来仕事を失ってしまうようなことが起こるのかどうかである。
もし、そういうことが将来起こる可能性が起こるのなら、いまのうちに子どもにAIについて研究をしておくことを勧める以外に方法がない。
AIが進歩して算数の計算を習熟する必要がなくなったときの児童教育とはどうあるべきか、積分とか微分の計算は大学のテクストに出てくる問題のほとんど100%が数式処理で解ける時代が来ている。その時代の微積分の講義とはどうあるべきか、マトリックスの計算で固有値を簡単に求められたりするようになったときの線形代数を学ぶときの意義とかをなぜ問題にしないのであろう。
自然科学のみならず、すべての科学研究がディープ・ラーニングでかなりの部分がカバーできるようになったとしたら、そのときの物理学の研究や数学の研究はどうなるのか。そういうことを論じるべきではないのか。
それともそれらの研究はまだAIのできる範囲を超えているのか。それとも研究の一部はAIがカバーできるようになってもそれは偏ったものであり、人間の発想力というか課題意識の方が広いのか。こんなことは問題にならないのか。
そういうことを問題にするべきではないのか。そしてAIの研究が行き着くところまで行き着くならば、それでもカバーできない分野は何かを推量しておくべきではないのか。
武谷三男は「課題を見つけることがいちばん大切だ」と述べた。定式化された課題は「器用な人ならだれでも解ける」と。課題を見つけることまでAIができるようになるのか。そういうことの可能性を新聞だって論じるべきなのだ。それをしていない段階では朝日新聞の人工知能の記事の突っ込みが浅いと言わねばならない。
「みかんの花が咲いている」という文句で始まる曲「みかんの花咲く丘」は私が小学校の頃に音楽の時間でたびたび歌ったことがある。
この歌が戦後につくられたとは知らなかった。戦前からある歌だと理由もなく思っていた。ところが去る土曜日(8月8日)のNHKの戦後70年の歌謡ショーで戦後昭和21年か22年の作だと知った。
もっとも私たちが音楽の時間でこの歌の練習をしたのは多分22年以降であると思われる。多分、23年か24年のことであろう。
昭和20年は西暦でいうと1945年である。この年は私が6歳になった年である。広島に原爆が落とされたときには私は今治の沖の大島の陰にある小さな島に疎開していた。
私は今治の空襲を体験した後、母の生まれた島に兄と二人で疎開させられていたのだ。そのとき、四里四方爆弾が広島に投下されたと聞いた。
四里四方爆弾とは今では使われないが、四里四方が壊滅的な被害を受けたことを表す、その当時の表現であった。原爆などという語はまだ一般的に知られていないころである。
8月15日の敗戦記念日には今治にもう帰っており、今治のいまのハロ―ワーク(動員所とかそのころは言った)のラジオでお昼に昭和天皇の終戦の詔を聞いたのだが、ラジオの雑音が多くて、また、幼児だから天皇の詔が何を意味するかまったく分からなかった。父が会社から夕方に帰って来て日本の国が戦争に負けたことがようやく分かったという次第であった。
戦争中も戦争直後も食べるものがなく、食物の買い出しが私の父母の仕事の一つでもあった。私の家には家の前にちょっとした家庭菜園があったけれども、そこでとれる野菜とかジャガイモはそんなに多量ではもちろんない。一家8人が食べて行くにはもちろん十分ではない(注)。
そんな時代を私たちは小さいときにはすごしてきた。もっとも日本国中が貧乏だったから、あまり苦にはならなかったであろう。もっとも小さいなりにお腹は空いていた。
(注)ドイツ人はジャガイモは野菜にはいれないという。その例にここでは従っている。意外な気がするが、魚を日本では動物には入れないのと同様であろうか。
戦後、ラジオしかなかったころの人気番組に「二十の扉」というのがあった。これは回答者が二十の質問によって隠された答えを探るというのであった。このときに分けられた分類が「動物・植物・鉱物」の三つのジャンルであった。
ということは隠された答えは具体的に事物であった。抽象的なものはこの3つの分類に入らないものが多いのだから。