とは私が言われたのではない。
私はもう年だから研究しないからといって、あまりとがめだてされることもない。それもしかし、さみしい話ではあるが、大体歳をとれば、そんなことは誰からも言われなくなる。
それでも歳など全然気にしなくて研究に励んでいる人がおられるから頭が下がる。
しかし、そういうことを言うために表題をつけたわけではない。最近人づてにある人が自分よりも若い人からそう言われてちょっと落ち込んだという話を聞いた。
研究者は研究しないと心に決めている人など本来いないと思っている。しかし、いくつかの理由で主観として意図的に研究しないのかと思われるように研究ができないことがある。
その第一は多分いいアディアが思い浮かばないということが原因であろう。これには私もそういう経験がある。いいテーマを研究に選ぶと一つの課題をクリアすると、また新たな課題が見えて来てつぎにその課題をクリアしたいと努力してそれをクリアするとまた・・・。
だが、あまりいいテーマを選ばないとそのテーマが終わるとつぎにテーマを懸命に探さないといけないということも起こりうる。そういうときにつぎの課題をすぐにみつけられればいいのだが、そうではないこともある。
それにアイディアは思い浮かんでも研究以外のことで多忙で研究できないということもしばしば人生には起こりうる。これはある人には大学での行政的な職務であったり、家庭の事情であったりする。
それも自分で実験したり、計算をしたりしている研究者ならば、そういう研究以外の仕事で研究できないことは起こりうる。
大学院生をもっていて、学生にテーマを与えてそれがまとまると共同研究として論文を書くことができるような地位におられる人ならば自分は忙しくても大学院生が実際の計算なり、実験をしてくれてそのまとめの段階で論文の草稿を書き直したりすることによって研究ができる場合もある。
自然科学系や工学系の研究者で大学院生をもっている場合にはそういうこともありうる。研究はルーチンの仕事ではないので、研究の進行で困ったことが出たときには大学院生にその回避のアドバイスをしたりすることはやはり研究の一環であろう。
研究で大事なことはそういう人と自分の研究テーマについて議論ができる環境にその人がいるかどうかだという気がしている。
一人で研究するタイプの研究者ならば、自分が多忙だと研究は少しも進まない。これはその人、その人によるので、一概にどうだということができない。
しかし、いちばん難しいのはアディアが浮かばないというときだろう。アディアはどうしたら思い浮かぶか。それは経験も必要だろうし、一途に何か考え続けることが必要だということもある。
研究の方法論などというものもあるのかもしれないが、たいていは人知れず思い詰めてじっと考えることだという平凡なことしかしていない。また私には「比較する」という静的な方法ぐらいしか、したことがないようだ。
武谷三段階論などを研究するとか言いながら、自分自身はそんなにも低レベルである。