といえば、技術の定義を「客観的法則性の意識的適用」と考えるか「労働手段の体系」ととるかである。その論争の詳しいいきさつを例えば、中村静治の『新・技術論論争』(創風社)を読んでもぴんと来ない。
その分野の専門家の一人である、八巻俊憲さんに先日このことを尋ねたが、彼の意見は技術を「労働手段の体系」ととらえる人たちは経済学史の人などが多くて、技術のことが分かっていないのではないかというご意見だった。彼は大学で物理を学んだ方である(注)。
そういう風に言われたと解釈したのだが、もっと発言が微妙だったのかは私には判断できなかった。そんなに微妙な発言とは思えなくてかなり決然とした物言いだったように思う。
昨夜もそれに関した金山浩司さんの論文の一部を読んだのであるが、やはりよくわからない。大体日本語のはずだが、わからないのである。
科学には階級性がないという立場を私もとるので階級性があるという考えが理解できないのである。もちろん科学者本人には階級性があるだろうけれども。
これは科学が有用ということで体制側に取り込まれるという話にしても実際に有用なのは科学を応用した技術であろうが、科学が技術の可能性を開くので、科学と技術とがごっちゃに考えられるようになっているという気もする。
武谷批判の重要な書籍の一つである中村静治『新・技術論論争史』(創風社)を徳島科学史研究会の報告に来年取り上げるかどうかはある程度これらの技術論の論争の私なりの判断がつかないと取り上げられない。
(注)八巻さんは技術の「意識的適用説」の端緒のアイディアを出したと言われている内山弘正の研究家であり、その論文をいま用意している。そのうちに論文として発表されるであろう。