物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

年賀状を書き終えた

2016-12-24 17:20:47 | 日記

昨夜から書き始めた年賀状をようやく書き終えた。今年は年賀状の後半部を仕事場の机で書いたので大分楽だった。

例年はこたつの上で座椅子に座って書くので、姿勢が前かがみになり、肩が凝っていた。もちろん今年もそうだが、机で書いた方が楽なのではないかという予想はあたった。

前もって身内が亡くなって年賀以上の辞退の方が多かったので、少し少なかったのかもしれない。それでも妻が何人かのハガキを始末してしまったのでもしかしたら、辞退しておれる方に年賀状を書いたかもしれないが、こちらから出す分にはかまわないということなのでそれでもいいだろう。

我が家ではだいたい150枚の年賀はがきを購入するが、今年はいまのところ少しあまった。もっとも予期しない方カラの年賀状も来たりするので、その分くらいはとっておかなくてはならない。

しかし、こんなにすっきりと年賀状が書ける年は珍しい。


四元数についてどう書いてあるか

2016-12-24 12:29:26 | 日記

ハミルトンが四元数を発見したことは知られている。

その四元数について歴史としてどう書いてあるか。これが今の私の関心事の一つである。最近読み返したのはベルの『数学をつくった人びと』(東京図書)のハミルトンの項である。さすがにベルは要領よく四元数について書いている。

四元数の発見の本質に迫ったものではなかったが、それでもそれなりに上手に数学の「体」の概念を説明しながら、四元数の話へと導いている。もちろん、四元数がハミルトンの最大の発見などとベルも評価はしていない。

もう一つ最近気になって読み返したのは森毅さんの『異説数学者列伝』(蒼樹書房、現在ではちくま学芸文庫?)のハミルトンの項である。森さんは四元数が現在の数学の多くの分野の芽になったことは述べているが、四元数の発見のプロセスに迫ることを巧妙に回避している。

これを昔読んだことがあったと思うが、ハミルトンは妻がひ弱で彼女の看病に手を取られ、彼の才能の幾分かを浪費したのではないかというふうに述べられている。

しかし、そのことよりももっと大きな悲劇はハミルトンが四元数の発見を自分の人生における最大の発見だと思い込んだことだとある。そうかもしれない。


複素解析の本の判定基準

2016-12-24 12:09:56 | 日記

私はあまり複素解析(昔の言い方だと関数論)に暗いので、複素解析の新しい本が出たときにすぐに二つのことをどう書いてあるのかをチェックすることにしている。

一つは分岐点の定義をどう書いてあるか。もう一つは解析接続の方法についてどう書いてあるかである。

どちらも私の知りたいことを書いてある本は少ない。これは日本語で書かれた本だけではなく、英語で書かれた複素解析の本についても同様である。

私が複素解析に暗いのにそういうことに判定基準を設けているのはその二つの点がどうもしっくりこないからである。

もっとも分岐点の定義の方は故安倍斉先生の書かれた『応用関数論』(森北出版)で解決した。そして安倍先生の本と同じような分岐点の定義はすでにベルの『数学をつくった人びと』(東京図書)のリーマンの項に書かれてある。

ところが解析接続の方法のいろいろについてはあまりそれらを説明したものに出くわさない。今村勤『物理と関数論』(岩波書店)に解析接続の方法として3つをあげられているが、その例を少ししか示されていない。

もう一つ松田哲『複素関数』(岩波書店)に例が出ている。この書が比較的に解析接続の例の多い書である。

他にも複素解析の本を詳しく読めば十分書いてあるのかもしれないが、あまりそちらの分野の書を読まないので私が知らないだけであろうか。それにしても欲求不満である。

(2023.7.7付記) 複素解析の本の良し悪しの私の判定基準が「解析接続」と「分岐点の定義」にあるのは今でも変わらないが、解析接続の説明が例として挙げてある書として

  金子晃『関数論講義』(サイエンス社、2021)

を挙げておきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 


ブログは消耗品である

2016-12-24 11:53:46 | 日記

新聞が消耗品であるようにブログも消耗品である。だから日々新たな気持ちで書くことが大切で、昔書いたことが大事なわけではない。

とはいうものの日々の自分の考えたことを書いているので、ときどきはそれを見直すのがいいと思っている。思想と言えるほどのものが私のブログにあるのかどうかはわからないが、どういう本を読んであんなことを思ったとかそういう風なことは書いていないことが多いけれどもやはり何かを考える動機に読書がなっていることは確かである。

最近ではコタツで夜に読んでいるのは図書館で借りて来た「昭和後期の科学技術思想史」である。これに岡本拓司さんが書いている広重徹論は大部なものである。多分日本で書かれた最大の広重徹論であろう。

私の不満に思うのは現代科学の発展の歴史をふり返って広重の言ったことが当たっていたのかどうかという視点が欲しいような気がしている。広重徹が亡くなったのは1975年であり、彼が思っていたことがどれほど正しかったかは広重徹論を書く一つの視点ではなかろうか。

(2016.12.26付記)  広重は70年代に素粒子で多くの共鳴粒子が見つかったりでして、数百個になったことにいらだっていたと、この岡本拓司さんの広重論にある。そこが私などは不思議に思うところだが、多数の素粒子が見つかったときにすでにそれらを複合粒子として考えるという考えが出ていたのだから、いわゆる本質的な力学としてはまだきっかけもつかまれていないとしても素粒子の研究としてつぎの段階への手がかりは出ていたことになる。

それはFermi-Yangの論文に始まり、坂田モデルとつながり、IOO対称性とか1960年代の初頭にはそういうことが出ていた。それがGell-MannとN'eemanの八道説につながり、その後のクォークモデルとなる。

そして電弱理論とかQCDにつながっている。Weinberg-Salam理論は1968年には出ているが、くりこみ可能性を't Hooftが証明したのが1971年というから広重の亡くなる前にはすでに新しい理論の芽はあったのだ。

そこらの評価が広重にはできていなかったと思われる。最後の段階への評価はできなかったにしても複合モデルを評価できなかったのは広重としては大きなミスではなかろうか。そういうことは岡本拓司さんの広重論にはもちろん出てこないのだが。