これは別に研究者とかを目指す人でなくともである。何をするにしても個性をのびのびと発揮することが必要であろう。
個性には、場合によっては他人が辟易するようなものもあるかもしれない。あまり他人に不快感を与えたり、困らせたりするのは困るが、たとえば、私の場合だと自分に納得できるということである。そういうことがないとなんでもわかったような気にならない。
それは私の頭がわるいということだろうが、それもやはりこの年になるとそれも個性ではないかという気がしてきた。
だが、それが若いときから発揮できていたかというとどうもそうでもなかった。発見的教育というのにこだわっていたり、発見的理解とかにもこだわっているのだが。
私の鈍才的な発想に秀才の方は反対もあろう。しかし、その点を評価してくださる方も少数だがおられる。いつだったか『物理数学散歩』を送ってあげたら、はじめて発見的な数学の教え方を知ったと言われたことがあった。もちろん、それらはまだまだ不十分ではある。
だが、その片鱗は理解してもらえたという気がした。こういう部分を増やしていきたい。