自然現象で学問の対象になるような場合だと真実は一つに決まらないと学問として成り立たない。これは普通には認識されている事実だろうか。
だが、人間的な感情においてはどうだろうか。なかなかそうはいかないのが実状ではないだろうか。だからときどき一つの事件を複数の立場から見た映画や演劇とかがあったりする。
だから、どちらかがまちがっているとは言えないことがであるのではないだろうか。こういう風なことを考える機会がたまたまあった。
当事者にはやりきれなくて、相手が正しくないと思うことはままありそうだ。だが、感情的なことではどちらもそれなりの真実味があるということだ。そういう観察をしてというかその場では思わなかったが、後で考えてみるとそういうことではなかろうかと思えることを見聞した。
物理学のことでもそれに似たことが起こった。電子は質量があって、古典的な粒子として考えられてきたが、それを覆す考えがde Broglieにより1924年に提唱された。電子の物質波仮説である。もちろん、この仮説、電子は粒子的性質をもつが、一方で波動的な性質をも併せ持つということが現在では正しいことが知られている。
現実の世界では電子は波でもあり、粒子でもある。しかしこれは古典的の考えでは波であるものは粒子ではないし、粒子である物は同時に波であることはあり得ない。
だが、これは量子論の立場からはそういうことが可能になる。それだけ物の見方が高次の論理的なものになっている。それは観測するという行為が、例えば電子の運動量を観測するのか位置を観測するのかによって電子はその振る舞いがちがうからである。
こういうある意味で弁証的ともいえる見方を現在ではしている。それも別に弁証的な見方だともあまり意識せずにである。