出版社から西條敏美先生の『知っていますか? 西洋科学者ゆかりの地 in Japan (Part II)』(恒星社厚生閣)を送ってもらった。これは科学者の記念碑とかお墓への紀行文25人分をまとめたもののPart IIである。
しかし、なかなか一気に読む時間がない。しかたがないから、一昨日くらいから2人または3人くらい分を就寝する前の1時間くらいに読むことにした。
昨夜、日本近代医学の父とも言われるベルツの項を読んだら、印象的な文が引用されていた。下に引用しておく。
「西洋の科学の起源と本質に関して日本では、しばしば間違った見解が行われているように思われる。人々はこの科学を、年にこれこれだけの仕事をする機械であると考えています。これは誤りです。西洋の科学の世界は決して機械ではなく、一つの有機体でありまして、その成長には他のすべての有機体と同様に一定の気候、一定の大気が必要なのであります。・・・日本では今の科学の成果のみを彼らから受け取ろうとしたのであります。この最新の成果を彼らから引き継ぐだけで満足、この成果をもたらした精神を学ぼうとしないのです」 (1901年12月22日)
これを読んで思ったことはつぎのようなことである。武谷三男の三段階論が科学の歴史としてはあっていないという議論がある。
それはひょっとしたらそうかもしれないとも思っているが、武谷が三段階論のような見解をもつようになるときの動機は実は上に引用した科学が生まれるための一定の気候とか大気が日本に欠けているという欠点を少しでも補いたいという意図から生まれている。
どうもそういう歴史的な背景とか問題意識を抜きにして、単に三段階論が科学の歴史としては間違っているというような議論はそれ自体はもしかして間違っていないとしてもやはり議論の前提とか背景を理解していないということではないかと考えている。
現在ではもう日本は科学の後進国ではないだろう。それは先人の方々の尽力のお蔭である。だから、現在では武谷三段階論とかをうんぬんしなくてもいいくらいの科学の伝統ができているのかもしれない。
だが、それはまだ1930年代ではそうではなかった。
もちろん、ベルツは20世紀のはじめごろに、日本人の科学の受け取り方を批判したが、それはその当時はそうとられてもしかたがなかったであろう。
しかし、その後の日本の科学の業績を見てみると100年以上を経て、日本人は大いに科学の分野で健闘していると考えてよいだろう。
だから科学の成果だけを取り込むと思われたものもはじめはそうであったかもしれないが、それははじめだけであったのだろう。
ただこれがこれからも日本の科学の伝統を持続できるかどうかは、これからの日本における科学政策がどうなるかにも依存してくると思われる。科学など国家の体制にすべてのみ込まれるにしても、個人としてどうしようもないなどとは考えてはいない。