物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

余弦定理と正弦定理の同値性

2014-10-23 11:19:16 | 日記
余弦定理から正弦定理を導き、また逆に正弦定理から余弦定理を導くことができる。

すなわち、どちらかの定理がわかれば、もう一つの定理は前の定理と独立ではない。このことを知ったのは最近のことだが、それをきちんと導いたインターネットのサイトがちゃんとあった。

「私の備忘録」というタイトルのサイトでhttp://www.004.upp/so-net.ne.jp/s_honma/である。前に「数学・物理通信」に掲載した「自然数のべき乗の級数の和1, 2」というエッセイを書いたときにも大いに参考にさせてもらった。

このサイトはhonmaさんご自身の知恵と知識だけではなく、友人や知人の方々の知識や知恵や工夫や提案が取り入れられており、その点ですばらしい。

だが、経時的につぎからつぎへと新しい工夫や観点が付け加えられており、わかりやすくはない。その点が強いて欠点といえば欠点だろう。だが、それは大した欠点ではない。

よく読めば、ちゃんとわかるように書かれているからである。ただ、あまり高級な話題がないように思われるが。

余弦法則から正弦法則を導くには

2014-10-22 12:11:32 | 日記

三角法の余弦法則から正弦法則を導くにはどうするか。

このことのヒントを書いてあるのが、最近たびたび話題にする『数学へのプレリュード』(みすず書房)である。

昨夜も今日検診を受けると思うとほとんど気になって眠れなかった。しかたがないので、深夜2時過ぎに起きて階下に行き、この書を読むことにした。

そしたら、余弦法則から正弦法則を導くことからヒントを得た、問題が紹介してあった。その背景を知らないでまずそのまま解いてみたら、何とか面倒な計算をしてだが、その問題は解けた。

それで気をよくしてその問題の背景の説明を読んだ。この話は前にもこの書で読んだのかもしれないが、まったく記憶になかったから多分はじめて読んだのであろう。

普通の大学受験の学習参考書にもそんなことを書いたものはあまりないか、またはまったくないと思われる。それでどうってことはないのだが、三角法の法則の間に矛盾がないことを認識をさせてもらった。

もっとも現時点できちんと論理的に余弦法則から正弦法則を導くことに成功しているわけではない。

(2019.6.24付記)  「数学・物理通信」5巻1号(2015.3.2)に「正弦法則と余弦法則」のタイトルで記事を書いたので、これはインターネットで検索したら、見ることができる。


ドイツ語圏とその文化2

2014-10-21 10:37:04 | 日記
昨年の今日「ドイツ語圏とその文化」という記事を書いた。これは個人の発行するメール配布のサーキュラーのタイトルである。昨年11月にその第1号を発行した。

その2号は今年の2月に発行したと思うが、3号がなかなか発行できない。大分前から3号を用意してはいたのだが、ようやくやはり11月に発行できそうになっている。

他に用事があったために発行が遅れたのだが、やはり誰か投稿してくれる人がいれば、発行がスムースにいく。

今回は医師の I 先生が投稿して下さっている。だが、発行が遅れてしまって申し訳がない。本文をほぼつくって日曜日にその文章を見直したら、いたるところ赤で書き変えてしまった。

その入力を昨日するつもりであったが、他のことに気をとられて全くしなかった。今日はそれをしよう。

写真とか画像の取り込みも必要である。発行にはいましばらく時間がかかる。


movementとscore

2014-10-20 15:39:22 | 日記
movementとscoreとは音楽用語である。

scoreは「楽譜」の意味であることは知っていたと思うが、movementが交響楽等の「楽章」の意味であることはついぞ知らなかった。先刻、「ニュースで英会話」をラジオで聞いていたら、third movementというのが出て来て、「第三楽章」の意味だとの伊藤サムさんの説明があった。

私の聞き間違いだといけないので、早速手元の英和辞典を引いてみると確かに「楽章」という意味がmovementの項の後ろの方の訳に出ていた。また一つ偉くなった。

ところで、これらをドイツ語ではなんというのだろうか。ということであわてて和独辞典を引いてみると、楽章はSatzであった。-r Satzは普通「文、文章」という意味である。こういう風にいうのか。der dritte Satzが第三楽章という意味である。

では「楽譜」はドイツ語でなんというか。これはdie Notenという。普通複数で使われる。単数での-e Noteなら「音符」と意味だとある。ちなみにNoteには「成績」とか「評点」の意味がある。「メモ」の意味もある。

メモはMemoでもドイツ語として通じるはずだが、手元の独和辞書には載っていなかった。-e Notizというドイツ語がメモの意味である。

30年以上前にメモという語のまちがいをしたことがあるので、そのために記憶している。

パターンの源泉

2014-10-20 10:55:03 | 日記
パターンの源泉としての行列式があるという事実を一昨日知った。

これはソーヤーという数学者の書いた『数学へのプレリュード』(みすず書房)という本を読んで知ったのである。この書は私の学生時代からの愛読書の一つである。

長い間書棚に眠っていたのだが、最近になって行列をどう教えるか学ぶかに関心があるので、この書を引っ張り出してきている。

循環行列式と関係した話題である。このことを書いた文献がないかと藤原松三郎『行列と行列式』(岩波書店)を探したら、循環行列式のことが載っていた。

昨日の午後をこの件をちょっと調べて計算をしてみたが、うまくいかない。それでしばらく置いておいたが、昨夜の12時を過ぎて計算をしたら、少しだけ計算が進んだ。

全く見当がつかなかったのことだから、昨日としてはよしとした。また私にとって新しい問題を見つけた。

少し仕事が進んだ

2014-10-18 12:42:45 | 日記
このところ仕事が頓挫していると愚痴ったが、昨日一つだけエッセイを書き上げた。

もっとも全く新しいエッセイではなくて、以前に書いた数学エッセイを改訂したのである。picture環境で図をつくっていたのだが、最後の仕上げをした。

これでたった一つだが、仕事がかたづいた。それでもかなり長い間気にかかっていた仕事なのでちょっとすっきりしている。

まだまだ、しなければならないことは多いけれども、一つ一つ片付けて行くしかない。

引っ越しの完了

2014-10-17 11:48:45 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、ようやくOCNからgooの方への引っ越しが完了した。

最近になって、OCNと同じブログ名でも引っ越しができるようになった。これがもっと前から使えていたのならそれにしたと思う。

だから、もう一度やり直すかこのままにするかという選択の余地ができた。それと問題は長いブログ本文だとそれが忠実に新しいgooのブログに反映ができなかったらしい。

大部分のブログはそのまま引っ越しができたらしいが、元のまま記録を残しておきたいという気もしている。
それもなんとかしてできるらしいのだが、その方法を知っていない。

まだまだいろいろ引っ越しに関しても終わりになったとは思っていない。

久しぶりの外国語ネタ

2014-10-16 12:59:36 | 外国語
ブログとは関係がないが、日曜日の午後おそくに放送のある、「おおぎり」を見ていると落語家がそれぞれその人固有の持ちネタをよく使って「おおぎり」に対応している。

それと同様にこういうブログもブロガーがいくつかの得意の持ちネタがないとブログは継続しては書けないだろう。

最近は数学のネタが多かったので、I 先生からコメントし難かったというお叱り(?)もあった。

自分のその時その時の関心事をブログの話題としているので、どうしても話題が偏ることはしかたがない。

もっともそれぞれ話題としてもいい、興味深い事柄がなかったわけではない。先週のドイツ語のクラスで出てきた語に\"{o}kumenischがある。辞書の訳語だと「全キリスト教の」とある。

こんな語はまったく知らなかった。名詞だと\"{O}kumeneとある。訳語は「全キリスト教徒(教会)」とある。訳語からすべてを悟る人がいれば、その人の頭はなかなか鋭い人であろう。

私にはその意味が全くわからなかった。ドイツ語のクラスでようやく解説をしてもらってわかった。これはHannoverで10月3日に行われた、ドイツの統一記念日を祝う式典でキリスト教のある特定の宗派ではなく、あらゆる宗派が集まって式典を祝ったということらしい。

ドイツの北の方ではプロテスタントが多いが、南の方ではカトリックが多い。それにギリシャ正教の信者もそれほど多くはないかもしれないが、いるであろう。

それで、国の式典を挙げるときにある特定の宗派、たとえば、プロテスタントに偏ることはできない。それで\"{o}kumenischに式典が祝われたのであろう。

これと似た事情は日本でも考えられる。日本では国の式典に宗教が絡むことは考えられないが、それでも何が事故や災害が起こったときに仏教のある宗派だけに偏った慰霊祭は避けられるであろう。そういうときにはある意味で\"{o}kumenischに慰霊の式典を行うことが想像される。

言葉としてはキリスト教に特有なものであろうが、現象としては同じような事情は日本にもあるということができる。

先刻だが、-e Palatschinke(n) パラチンケ(ン)という語を知った。もっともどこかでその音は聞いたことがあり、なんだか懐かしい思いがする。もっともそれがなぜなのかはわからない。

これを北ドイツでは-r Pfannkuchenという。これは日本語にすれば、パンケーキであろう。もっとも広辞苑を引いてみたら、ホット・ケーキともクレープともあったが、ホット・ケーキとクレープではだいぶん印象がちがうような気がする。


仕事の頓挫

2014-10-15 12:05:28 | 日記・エッセイ・コラム

仕事が頓挫しているというかうまく進まない。

いくつかの仕事を並行して進めているのだが、どれもうまく行かない。こういうこともあるのだ。

『ドイツ語圏とその文化 』3号はずっと以前から書き進めているが、まだ原稿が完成しない。大部分のところはできており、I 先生の寄稿も頂いてあるのだが、頓挫している。

レントゲンの生涯の原稿ができないのである。「数学・物理通信」に投稿予定の「自著を語る『四元数の発見』」というエッセイもそれも書きかけで頓挫している。

数学エッセイ「三角関数の還元公式」もできあがらない。それに前に愛数協の「研究と実践」に載せた数学エッセイの改稿もままならない。

どちらもこちらも八方塞がりの感がある。 我慢、我慢の毎日である。なかなか心が晴れない。


コスモス畑

2014-10-14 11:01:16 | 日記・エッセイ・コラム

東温市の坊ちゃん劇場裏に広い畑があって、そこにいまコスモスが咲いている。先日の日曜日に妻がグランドゴルフ場を見に行くかというのでモールがあるところへ出かけた。

そのついでという訳でもないが、このコスモス畑を見たのである。なかなか広い。すぐそばを高速道路が通っている。

ここは春には菜の花が咲いているという。日曜の午後であったが、天気はくもりでそれほどよくなったが、それでもコスモスを見に来た人がぼつぼついた。

私はピンクのコスモスが好きなのだが、真紅のコスモスとか白いコスモスもあった。

そして見に来た人たちは携帯で撮影をしていた。まだ咲いていると思うので、日曜とか土曜とかに見に行かれることをお勧めする。


もしも子どもがいなかったら

2014-10-11 16:04:37 | 日記
今日、タダ熟北持田に午後出かけた。今日から連休に入ったせいか小学生がいつもより少なかった。

それでという訳でもないのだろうが、彼らの勉強の面倒をみる、先生の数も少なかった。それでも I 先生の詩の授業があり、「もしも子どもがいなかったら」という詩を知った。

これはある夫婦にたまたま子どもがいなかったらというようなことではない。地球にまったく子どもがいなかったらという想定である。なかなか普通の人にはできない想定である。

しかし、マララさんが昨日ノーベル平和賞をもらった現在ではこの詩は切実でもある。もし地球に子どもがいないにとしたら、やはり人類は希望が持てるとは言えない。

イスラム過激派もそのことに思いをいたしてほしい。女性や子供を虐待するような社会が繁栄するとは思えない。

もちろん、イスラム過激派が起こってくるのも、世の貧困がすべての原因かもしれない。だが、それは女性や子どもを虐待することによってなくすことはできない。貧困の撲滅にはもっと別な戦い方をしなくてはならないだろう。そういう考え方をイスラムの過激派といわれる方々もするようになってほしい。

彼らも私たちももっと深く考たいと思う。彼らはなんらかの主張があるのであろう。その主張を実現するためには自分たちの思いを直接社会にぶつけなくてはならないと思い込んでいるのかもしれない。

もしも、子どもが地球上にいなかったらというような極端な想定をしてほしい。そこから新たな視座を得られるのではないか。

豆大福と珈琲

2014-10-11 11:31:46 | アート・文化

「豆大福と珈琲」という片岡義男さんの新聞小説が朝日新聞で数日前にはじまった。

片岡義男さんの小説は読んだことがないが、岩波のPR誌『図書』で片岡さんのエッセイの連載を読んでいたことがあった。

片岡さんは英語に堪能な人らしく、中学生の頃とか高校生のころから英語のペーパーバックスを買って読んでいたと書いていた。その蔵書の数は相当なものらしい。

その人が表題の連載小説を書き始めたのだ。今まで読んだところでは主人公の僕は37歳で、お父さんとお母さんは二人とも物理学者で1987年にいわゆる頭脳流出してアメリカに住んでいる。

両親がアメリカに行くときにぼくに一緒にアメリカに来るかと聞かれたが、ぼくは行かないと答えて祖父母と一緒に生活していた。

高校生のいま祖父母の家から出て、友人の家の離れに住むという話が今日までの話である。

乾いたというべきかどうかどう評していいのかわからないが、一文が短くて歯切れのいい文章である。

これから話がどういう風に展開していくのか楽しみである。

片岡さんの小説に関心のもつ個人的な理由はいくつかある。一つは私も片岡さんの小説出てくる両親のような物理学者だったし、それに作家片岡さんが大体私とほぼ同じような年齢であるからである。

片岡さんの小説の主人公の僕はだから片岡さんの息子さんくらいの年令であろう。ということは私の子どもたちの年令ともそんなに違わない。そこら辺が関心をもっている理由である。


三角関数の還元公式

2014-10-11 11:15:48 | 数学

「三角関数の還元公式」と題する、数学エッセイを最近書いている。その中にcos関数やsin関数を描こうと思っているのだが、それが何を使って描くかというところで頓挫しているということが先日の仕事が進まないという嘆きの原因であった。

cosやsinのグラフを描く方法はいくつか考えられるのだが、そのどれもまだ自分で使えるようになっていない。そこが問題である。

たいていの図は最近ではlatexのpicture環境で描いてきたが、さすがに正確なsin関数のグラフやcos関数のグラフはpicture環境で描くのは難しい。いや描けないことはないのだろうが、それをかなりの量のプログラムを書いて描くのではうんざりしてしまう。

それでemathかasymptoteか、はたまたプログラム言語のbasicで描くかといった選択がある。前に使ったことがある、GRAPESで描くという選択もあるが、いまはちょっとGRAPESを使いたくない気持である。

そこら辺がちょっと気持ちとして複雑である。どうしようもなければGRAPESを使うかもしれないが、いまのところはそれを使う気がない。だが、もう一度考えてみる必要はあるかもしれない。

(2016.11.25付記) 三角関数の還元公式について5, 6のシリーズを予定して「数学・物理通信」に書き始めたが、2回くらい書いてそのままシリーズが中断している。何を書くかは私の頭の中にあるだけなのだ。それも自分自身が何を構想していたかは記録をとっているわけではないので、もう今はわからない。もちろんその執筆を再開すると思いだすであろうが、それがいつになるかはわからない。

関心のある方は「数学・物理通信」の記載のエッセイを読んで見てほしい。こういう話はすでに分かっている話であるが、教育的にはそれでも突き詰める価値があると私は思っている。

(2017.6.7付記) 三角関数の還元公式についての5回ないし6回のシリーズのエッセイは頓挫したままである。いつかちゃんと書いておきたいが、さて書けるかどうか。

その構想もほとんど忘れてしまった。2回だけこのシリーズを「数学・物理通信」に書いたが、それきりとなっている。いつかそれらのエッセイを書くことを再開する、きっかけをつかめればいいのだが。

私のもっている問題意識はあまり普通の人にはどうでもいいことかもしれない。だが、そういうつかみ方をするということは私の生きているうちに書き残しておきたい。


仕事が進まない

2014-10-10 11:30:37 | 数学

いま数学エッセイを書いているのだが、図を描く必要があり、以前に挫折したemathをインストールして再度挑戦しようとしている。

sin とかcosとかのグラフを書きたいのだが、これをpicture環境では書くことが難しいのだ。

グラフだとBasicとかの言語で描くことができるだろうが、そのときに字がなかなかうまく入れる方法を知らない。そこが難点である。

「数学・物理通信」に毎回投稿して下さるSさんは図をきれいに描かれるのみならず、イタリックのきれいな文字をいつも入れておられる。だから、方法があるのだろうとは思うのだが、Sさんに教えてもらうことに気が引けるのでそのままになっている。

その代わりに再度emathを習得した方がいいかと考えたというわけである。だが、なかなか私には気が重い。


サブカルチュアの戦後史

2014-10-09 12:06:26 | テレビ番組

「サブカルチュアの戦後史」というNHKの番組が10月3日に終わった。10回くらい続いた番組であったが、結構おもしろかった。

最終回のときにちょっとしたレビューがあった。

それによると

(1)ポップカルチュア(大衆文化)

(2)サブカルチュア 本質的に逸脱していく特性をもつ

(3)カウンターカルチュア(対抗文化)

があるという。それに元々の本来のカルチュアもあろうか。

「これからの文化の中心は必ずしも都会ではない」との宮沢章夫さんの予言である。それは期待を込めてのことかもしれない。

インターネットで検索してはじめの方にだけあるものを見るのではなく、終わりの方にあるものも見ようという提言をされていた。