物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

対数と指数とは同じもの

2019-11-20 10:30:59 | 日記
「ベクトルの空間回転」のエッセイを改訂している。図の入力が昨日かなり終わったが、それでも面倒なところが今日以降の残されている。

さて、今日中にできるかどうかはわからない。やってみないと。

さて、話は変わる。早朝にまだ目が覚めた意識があるわけではなく、眠っているときに、頭に浮かんできたのは「指数と対数とから、指数関数と対数関数とにどのようにつなげるか」ということであった。

これは「対数とは何か」というエッセイの改訂のことである。この改訂は図の入力だけですますつもりであったが、指数と対数とから指数関数と対数関数の移行へと本格的に説明をしたほうがよさそうだという考えが起こった。

このブログとか「数学・物理通信」の数学エッセイでは何回も説明したことがあるが、「指数と対数とは同じものである」。しかし、もちろん、問題意識が指数と対数では異なる(注)。

その「問題意識」が指数関数と対数関数とに具体化される。だから、指数関数と対数関数とは互いに逆関数となっている。いつも繰り返していうように指数関数と対数関数とはグラフ的にいうならば、y=xという直線に対称な関数となっている。

こういう説明が学校の数学の授業でされるのか、なされないのかわからないが、雑誌「数学セミナー」の巻頭言に掲載された女子大学生のように対数の記号logを見るとわからなくなって、悲しくなってしまう学生がいるのは残念ながら事実である。

この話は「数学・物理通信」の9月発行分に私のエッセイとして書いた。「数学セミナー」までさかのぼって見る気持ちのある人はインターネットで「数学・物理通信」を検索して読んでほしい。

(注) 「指数と対数とは同じものである」と書いてあるのを見たら、このブログはなんて馬鹿なやつが書いたのであろうと疑問を持った方も多いかもしれない。「指数と対数とは明らかにちがう」のにと反発した人もあるだろう。

その反応はわかるが、話をよく聞いてほしい。

あなたは「指数関数と対数関数」と「指数と対数」とをごっちゃにしている。私は「指数と対数とは同じ」とはいっても「指数関数と対数関数が同じ」とはいっていない。

(2019.11.21付記) 
前に徳島科学史雑誌に投稿した「対数とは何か」は、昨日読み返してみたが、対数と指数とに重点があって、指数関数と対数関数とに焦点があたっていない。もっと指数関数と対数関数にも焦点をあてた数学エッセイがほしいと思う。

これはいずれ「数学・物理通信」に投稿したいと思っている数学エッセイになるが、それがまだ書き加えができていない。



微分形式とストークスの定理

2019-11-19 11:50:43 | 日記

「微分形式とストークスの定理」についての計算をしたノートを見つけた。もっとも、これがどの本をチェックしたときのノートなのかわからない。

たぶん、倉田令二朗さんの『数学と物理学の交流』(森北出版)の該当箇所のノートだと思うが、それだけではストークスの定理の導出の十分な説明にはなるまい。それでこれは、これからストークスの定理を微分形式で説明するときの草稿としては、0から始める必要がないことはわかったが、それでもまだ十分ではないだろう。

もし、十分だと判断していたのなら、いまごろはその原稿は『数学・物理通信』に掲載になっていただろう。もっとも微分形式によるストークスの定理の導出だけで満足できるはずがない。


先日書いたことと

2019-11-19 11:15:17 | 日記
先日書いたことと反するような書評が『大学の物理教育』25巻3号に出ていた。

これはどこかのWeb上にある、latexシステムを使うことを説明した本が出たという話である。

本のタイトルは『インストールいらずのLATEX入門』(東京図書)である。

先日書いたのはもうlatexを止めて、wordに回帰するかという話であった。

しかし、当面はwordとlatexの2本立てで行くというのが普通にとられる方式かもしれない。

それでもWeb上ではlatexをつかう気にはならない。

冬木立のうしろに

2019-11-18 12:40:15 | 日記

   冬木立のうしろに赤き入日かな  子規 (1896)

        behind the winter stand of trees

        the red setting sun

これはE大学の校友会が送ってくれた、11月の暦の写真についた子規の句である。

写真はターナー島の西に沈もうとしている太陽である。ターナー島は漱石の『坊ちゃん』に出てくる島である。四十島というのが正式の名称である。





wordを使うようにするか

2019-11-17 17:22:12 | 日記

e-Learningのコンテンツはwordを使って書いたが、それ以後はもっぱらlatexを使って数学エッセイとか「数学・物理通信」とかを編集してきた。ところが、昨日会ったAさんはもうlatexは止めたと言われた。

「人生の残り時間が少ないのだから、wordを使うようにしたら」と以前に子どもに言われたことがあった。しかし、頑強にlatexを使うつもりであった。ちなみに子どもも以前にはlatexを使っていた。

だから、wordを使っていると聞かされたのは、これで2回目である。それで今日徳島からの電車の中で考えたのだが、少なくともe-Learningのコンテンツを本にするのはwordを使って書いた方が時間の節約になるということだった。

もっとも本といっても印刷したものは出さない。いわゆる電子書籍をイメージしている。

どれくらい式がきれいに表されるようになっているは実感としてわかっていないが、e-Learningの大部分は古いwordで書かれているから、それが新しいwordに乗り換えられるならば、大いに時間の節約になる。

それが「wordを使うようにするか」の答えになるのではなかろうか。


科学史西日本研究大会

2019-11-17 16:59:40 | 日記

昨日、徳島大学の蔵本キャンパスであった、科学史西日本研究大会に行ってきた。

発表者は12名だったが、終わりの方は数学史に関係したこと発表が4名だかあった。今まで、徳島科学史研究会ではこんなに多くの数学関係の人の話を聞いたことがなかった。

初等的な内容かもしれないが、聞いてすぐに判断できる気はしなかった。どういう内容であるかはもちろんわかるが。

私の発表は午後の発表の二番目であり、私のすぐ後はE大学のAさんであった。彼は工学部に勤めているが、力学教育の仕方への一つの提案であった。

私は「武谷三男は科学至上主義者か」というタイトルで話した。日本で「武谷三男論」を書いている人は彼を科学至上主義者だと思っているが、必ずしもそうではないということを岩波新書『原水爆実験』の記述から述べた。

岡本拓司さんとか、金山浩司さんとかが比較的最近「武谷三男論」を書いているのだが、二人とも岩波新書『原水爆実験』を引用文献または参考文献にはあげていない。

また、雑誌「技術と人間」に掲載された記事を集めた三つの本についても同様に挙げていない。それが岡本さんと金山浩司さんが、 私と異なったイメージを持つことになった理由ではないかと思っている。

武谷をこれから論評しようとすると、これらの書をも参照すべきであると強調しておきたい。


三角方程式を解いたことがない

2019-11-15 21:14:52 | 数学

科学や工学の分野において、三角方程式を解いたことがないと思っていた。

いつだったか、「arcsin x+arccos x=\pi /2を理解する」というタイトルのエッセイの旧稿を改訂したときに、三角方程式を解く羽目になったと記憶する。もちろん、これはarcsin x+arccos x=\pi /2を理解する方法のたった一つにしかすぎない。

それ以外に高校で数学の三角方程式の問題を解いたことがあるが、それだけかなと思い、よく考えてみた。そうしたら、三角方程式を解くことにあたるのかどうかはわからないが、tan \delta =・・・とかを解いて\delta を求めるというようなことを研究の一部として、していたことを思い出した。

やはりこれも大きな意味では三角方程式を解くことにあたっているのではなかろうか。これは量子力学の散乱問題でphase shift \delta が決まれば、散乱の断面積が決まるといった問題である。大学院のころにしていたのは、それからphase shiftを求めることである。そればかりをやっていた。

やさしい問題なら、解析的に解けることもあるが、そういう場合はほとんどまれである。だから、ポテンシャルが与えられたときに、そのphase shiftの数値を決定することはそれほど簡単なことではない。

プログラム言語Fortranにはそれで二つだったか、arc tanの値を求めるサブルーチン・ライブラリーがあったと思う。それらがどう用途が違うのかは先輩から聞かされていたが、いまっちょっと思い出せない。そして、そのことをいつか数学エッセイとして書こうと思っていたが、そのままになっていたことも思い出した。

三角関数の話題を実際的な観点から書いてみたいと思っているためである。そのときに、三角方程式をどういう場面で解くことがあるのかなと思った。

しかし、私の経験はかなり特殊な経験であったのかもしれない。

 


コンビニの営業時間

2019-11-15 12:32:34 | 日記
コンビニのセブン・イレブン、ローソン、ファミリーマートの三つの系列の中でファミリーマートが7時ー23時の営業を認めた。これは店主の希望通りにするという。これでコンビニの営業時間の改革が一歩進んだ。

先月だったか、私もこのブログで5時ー23時の営業を提案したが、ファミリーマートの方が私よりもはるかに進んでいた。

私は深夜のコンビニで勤務する人の人権を考えたら、5時ー23時の営業が妥協できるところかと思った。

第一、ヨーロッパでは日曜の商店の営業はない。それでもそういうものだと慣れてしまえば、なんとかなるのだ。

深夜営業をしても売り上げが319円ぽっちだったという例があがっていた。コンビニは犯罪抑止の役目をしているとの話もあるが、やはり犯罪抑止は警察に任せるべきものだろう。

犯罪抑止の役目をたとえしているとしても、それがコンビニの深夜営業の理由となるべきではない。

英語、中国語、ハングル

2019-11-15 11:54:40 | 日記
姪の子(防衛大学の4年生)が言っていたのだが、防衛大学で重要な言語は第一に英語、第二に中国語、第三にハングルだという。

フランス語やドイツ語はその範疇には入っていない。そういえば、NHKのEテレの外国語で夜中の12時前に放送のあるのは、中国語、ハングル、ドイツ語、フランス語の4つである。もちろん、英語はこの4つの言語のそのまた一段上の取り扱いである。

私などはイタリア語が真夜中の11時30分からにでもあれば、見たいが残念ながらそうはなっていない。イタリア語とスペイン語の放送は真夜中の12時を過ぎてしまう。

この時間帯だから、イタリア語とスペイン語の放送を見る気が起きない。しかし、こういう事実とは別にハングルを学習する知人や友人を知っているから、ハングルや中国語の重要性は明らかなのであろう。

ちなみに姪の子は自分の父親の中国の深圳への赴任に伴われて、カナダ系の高校での数年を深圳で過ごしたから、英語と中国語がある程度は話せると思われる。

それにハングルを加えれば、「鬼に金棒」ということになるのだが、ハングルを学んでいるかどうかは知らない。

現在の韓国と日本との間の不和は周知の事実だが、そういう政治とは別に韓国とか北朝鮮との隣国としてのつきあいも重要だとの認識は世間には十分に浸透しているのであろう。

これは現在すこし韓国からの観光客や日本製品の韓国での売り上げが減少しているとはいえ、いつまでもそうであるはずはない。そのうちに国と国との和解へと進まないと展望はお互いに開けない。

譲るところは譲らないといけない。原則論だけでは外交はできない。国の全体として損得だけ考えただけでも明らかなはずなのに、日本政府の対応はあまりいいとは評価できない。


かすかだが、社会の雰囲気が変わりつつある

2019-11-15 10:59:37 | 日記

「社会の雰囲気が変わりつつある」と感じている。資本主義の行き過ぎに対する大きな反省である。

世界の富の半分はたった1%の人が持ち、世界の富の95%は世界のたった5%の人がもっていると言われる。残念ながら、これは現在のところは本当なのであろう。しかし、それがそのままでいいはずがない。

アメリカの富豪の中には自分たちにもっと課税してもよいと主張する人まで現れている。

やはり、明らかに資本主義の行き過ぎであろう。過激な主張をする人なら、資本主義の過ちだとまで言うかもしれない。

これらの富裕な人にすくなからぬ割合の課税をして、それぞれの国の政府が多くの人々にもっと富がいきわたるように、平等に分配する機能をもたなければならない。

もし、そのような政策を行わない政府や政党はもう国民から信用されないように早晩なるであろう。しかし、まだこれは現状ではこの考えは、まだ単につぼみの段階かもしれない。しかし、そういう政策をとらないかぎり、世界は持続的には、存続しないようになる。

国の枠を外れて度外れに利潤をあげている、GAFAのようなグローバル企業に関しても、国際的な国家間の協定を結んで、それ相応の税金を支払わせるようにしなければならない。

どこかのtax havenはその存在を認めないようにする必要がある。そういう見識のあるリーダーのみが、それぞれの国のリーダーとして認められるようになるのは、まだ10年も待たなければ、ならないのだろうか。 

これはベルリンの壁崩壊から30年目の私の考えである。しかし、こういう考えは人々の間や生活実感の中にすでに底流としてある。私は単にそれらの人々の声を単に代弁しただけである。






パワーポイントの原稿を

2019-11-14 12:11:23 | 日記

パワーポイントの原稿を昨日ようやくつくった。土曜日の徳島である、西日本科学史大会の講演準備である。

大体、25分の講演時間に対して、20分の講演と5分の質疑といわれている。一枚のパワーポイントは2分間は見せないといけないと一般にいわれているので、それだと10枚前後しか見せることができない。

しかし、それでは時間があまってしまうおそれもある。だから、およそ12,3のパワーポイントを用意する。時間はきちんと読めないが、説明をする、しないはともかくちょうど10枚しか用意しないとかいうことはない。

内容はまだrefineする必要があるかもしれないが、まあ昨日できあがったのはよかった。今日と明日になんどか点検をする余裕ができるからである。

金山浩司さんとか岡本拓司さんの「武谷三男論」の参考文献には武谷の『原水爆実験』(岩波新書)は引用されていない。これはどうしたことか。

また、技術に関係した雑誌「技術と人間」に掲載された、論文を参照していない。これが金山さんが武谷について、ちょっと偏った見解を持つ原因ではなかろうか。


メモ

2019-11-13 13:57:04 | 日記

これはメモだから、他人が読んでも役には立たない。

いろいろなエッセイを書こうとしているので、その自分自身へのメモである。ほぼ終わったものもあるが、ほとんどは、これからしなければならない仕事(順不同)である。

1.Pauli行列の導出(ほぼ書き上げ)(『四元数の発見』第7章の付録への補遺の原稿)

2.ベクトルの回転 (Rodriguesの公式)(図の入力が必要)(『四元数の発見』 第8章の一部の改訂の原稿)

3.対数とは何か(「徳島科学史雑誌」への以前の投稿原稿)(図の入力が必要)

4.ある定積分の求め方(ほぼ書き上げ)

5.倍角公式と半角公式(「加法公式から導かない方法」でかなりの加筆と図の入力が必要)

6.加法公式の導出いろいろ(『数学散歩』所収のエッセイの改訂増補版)(かなりの加筆と図の入力が必要)

7.新・三角関数(e-Learningへの付加部分)(これの完成は、まったく予想がつかないほど時間がかかる)

8.超幾何関数とそれで表されない関数

(8はすでに「超幾何関数1」として「研究と実践」(愛数協)にすでに掲載されたが、「超幾何関数で表されない関数」の部分が書けそうな感じがしてきた)

書き上げられたエッセイは12月発行の『数学・物理通信』に掲載予定である。もっともその数はあまりまだ多くはないし、ページ数も多くはないので、十分なページ数になるようにいずれかのエッセイを至急に仕上げなければならない。

 

 


11月11日11時11分

2019-11-12 11:59:07 | 日記

11月11日11時11分にはドイツ語圏のカーニバル(Fastnacht)のはじまる日である。

これから勘定されたFastnachtである。冬の厳しい季節を通り抜けて春の訪れを感じるころにFastnachtがある。

これらはカトリックの地方であり、最近ではプロテスタントの地方でもなんらかの祭りというかお祝いの行列があるとかも聞くが、やはり伝統的にはカトリックの地方のお祭りである。

ミュンヘンだとFaschingといい、ライン河沿線ではファスナハトFastnachtと呼ばれる。
それの始まりは11月11日11時11分にあるとは毎年ドイツ人のR氏から聞くことである。それを毎年忘れてしまうのだが、そういうことを毎年聞いているうちに、頭に残るようになった。

今年は令和になったとかで、日本ではJRの駅で記念の切符を昨日発売した。だが、これは日本では別にファスナハトとは関係がない。

Ich habe keine Sehnsucht nach Tokyo

2019-11-12 11:17:00 | 日記

Ich habe keine Sehnsucht nach Tokyo. (私には 東京にあこがれがない)

これは先日のドイツ語のクラスで私のした発言である。

die Sehnsuchtは「あこがれ」とか「憧憬」のことである。ドイツの冬は厳しいので春来るのを待ち焦がれる。だから、ドイツ人は春へのあこがれがある。いわゆるSehnsucht nach Fr"uhlingである。

昔の文化人、ゲーテがイタリアに憧れたように冬でもある程度暖かい地中海地方に面したイタリアに憧れる。

もちろん、たぶんイタリアとかスペインに旅行できる人は限られていたろう。だれでも、いまのドイツに住んでいた人々が旅行できたわけではあるまい。

昔、イタリア人の化学者ロラと友人だったが、その彼の母は銀行の頭取の娘だったとかで、リビエラに別荘をもっているとのことであった。ロラに来ないかと誘われたことがあったが、なかなかそこまで行くことはできなかった。

ロラは馬に乗るのが好きだと言っていたが、いつだったか馬から落ちて脚を折ったとか聞いた。それでちょっと脚をひずって歩いていた。彼とはフライブルクのゲーテ・インステュイートで同じクラスではなかったが、一緒にドイツ語を学んだ仲であった。

(注) 中学生のころ国語のO先生に「憧憬はどうけいと読むなよ。「しょうけい」だよ」と言われたものだが、いつのまにか「どうけい」と入力しないと「憧憬」がでて来ない時代になった。時代は変わる。

武谷三男論とのずれ

2019-11-12 10:29:40 | 日記

多くの論者が書かれている、「武谷三男論」との生の武谷三男とのずれがかなりあるという気が現在している。

ごく最近では、金山浩司さんの「武谷三男論」(『昭和後期の科学思想史』(勁草書房))が出色の出来栄えなのだが、それですらなにかとイメージがちがう。

『武谷三男著作集』『武谷三男現代論集』(勁草書房)だけを読んで武谷三男を論じると、どうしても金山浩司流の武谷三男のイメージになってしまう。これはこれで、やはり武谷の一面かとは思うが、武谷三男には、やはりそこにはつきない側面があると思える。

菅孝行の「反核思想と科学思想」(『日本の原爆文学』(ほるぷ出版)所収)などともやはり違うという感じを深くする。菅さんの論文の批判はすでに自著論文「他人から見た武谷三男4」(「徳島科学史雑誌」)である程度したのだが、それでもまだ十分ではなかった感じが今はする。

菅さんの論文は、ある人々からは優れた武谷三男批判であると評価されているのだが、やはりかなり一面的なとらえ方の感じがする。もちろん、そういう批判されるような側面を武谷がもっていたということは言えるのかもしれないが、そこからこぼれ落ちてしまった側面があるという風に感じている。

これが、現在今週の土曜日(11月16日)に徳島である、西日本科学史大会への講演準備中の私の感じである。

たぶん、武谷三男史料研究会のYさん、Nさんなども似たような感覚をすでにもたれているのではなかろうか。