「微分形式とストークスの定理」についての計算をしたノートを見つけた。もっとも、これがどの本をチェックしたときのノートなのかわからない。
たぶん、倉田令二朗さんの『数学と物理学の交流』(森北出版)の該当箇所のノートだと思うが、それだけではストークスの定理の導出の十分な説明にはなるまい。それでこれは、これからストークスの定理を微分形式で説明するときの草稿としては、0から始める必要がないことはわかったが、それでもまだ十分ではないだろう。
もし、十分だと判断していたのなら、いまごろはその原稿は『数学・物理通信』に掲載になっていただろう。もっとも微分形式によるストークスの定理の導出だけで満足できるはずがない。
冬木立のうしろに赤き入日かな 子規 (1896)
behind the winter stand of trees
the red setting sun
これはE大学の校友会が送ってくれた、11月の暦の写真についた子規の句である。
写真はターナー島の西に沈もうとしている太陽である。ターナー島は漱石の『坊ちゃん』に出てくる島である。四十島というのが正式の名称である。
e-Learningのコンテンツはwordを使って書いたが、それ以後はもっぱらlatexを使って数学エッセイとか「数学・物理通信」とかを編集してきた。ところが、昨日会ったAさんはもうlatexは止めたと言われた。
「人生の残り時間が少ないのだから、wordを使うようにしたら」と以前に子どもに言われたことがあった。しかし、頑強にlatexを使うつもりであった。ちなみに子どもも以前にはlatexを使っていた。
だから、wordを使っていると聞かされたのは、これで2回目である。それで今日徳島からの電車の中で考えたのだが、少なくともe-Learningのコンテンツを本にするのはwordを使って書いた方が時間の節約になるということだった。
もっとも本といっても印刷したものは出さない。いわゆる電子書籍をイメージしている。
どれくらい式がきれいに表されるようになっているは実感としてわかっていないが、e-Learningの大部分は古いwordで書かれているから、それが新しいwordに乗り換えられるならば、大いに時間の節約になる。
それが「wordを使うようにするか」の答えになるのではなかろうか。
昨日、徳島大学の蔵本キャンパスであった、科学史西日本研究大会に行ってきた。
発表者は12名だったが、終わりの方は数学史に関係したこと発表が4名だかあった。今まで、徳島科学史研究会ではこんなに多くの数学関係の人の話を聞いたことがなかった。
初等的な内容かもしれないが、聞いてすぐに判断できる気はしなかった。どういう内容であるかはもちろんわかるが。
私の発表は午後の発表の二番目であり、私のすぐ後はE大学のAさんであった。彼は工学部に勤めているが、力学教育の仕方への一つの提案であった。
私は「武谷三男は科学至上主義者か」というタイトルで話した。日本で「武谷三男論」を書いている人は彼を科学至上主義者だと思っているが、必ずしもそうではないということを岩波新書『原水爆実験』の記述から述べた。
岡本拓司さんとか、金山浩司さんとかが比較的最近「武谷三男論」を書いているのだが、二人とも岩波新書『原水爆実験』を引用文献または参考文献にはあげていない。
また、雑誌「技術と人間」に掲載された記事を集めた三つの本についても同様に挙げていない。それが岡本さんと金山浩司さんが、 私と異なったイメージを持つことになった理由ではないかと思っている。
武谷をこれから論評しようとすると、これらの書をも参照すべきであると強調しておきたい。
科学や工学の分野において、三角方程式を解いたことがないと思っていた。
いつだったか、「arcsin x+arccos x=\pi /2を理解する」というタイトルのエッセイの旧稿を改訂したときに、三角方程式を解く羽目になったと記憶する。もちろん、これはarcsin x+arccos x=\pi /2を理解する方法のたった一つにしかすぎない。
それ以外に高校で数学の三角方程式の問題を解いたことがあるが、それだけかなと思い、よく考えてみた。そうしたら、三角方程式を解くことにあたるのかどうかはわからないが、tan \delta =・・・とかを解いて\delta を求めるというようなことを研究の一部として、していたことを思い出した。
やはりこれも大きな意味では三角方程式を解くことにあたっているのではなかろうか。これは量子力学の散乱問題でphase shift \delta が決まれば、散乱の断面積が決まるといった問題である。大学院のころにしていたのは、それからphase shiftを求めることである。そればかりをやっていた。
やさしい問題なら、解析的に解けることもあるが、そういう場合はほとんどまれである。だから、ポテンシャルが与えられたときに、そのphase shiftの数値を決定することはそれほど簡単なことではない。
プログラム言語Fortranにはそれで二つだったか、arc tanの値を求めるサブルーチン・ライブラリーがあったと思う。それらがどう用途が違うのかは先輩から聞かされていたが、いまっちょっと思い出せない。そして、そのことをいつか数学エッセイとして書こうと思っていたが、そのままになっていたことも思い出した。
三角関数の話題を実際的な観点から書いてみたいと思っているためである。そのときに、三角方程式をどういう場面で解くことがあるのかなと思った。
しかし、私の経験はかなり特殊な経験であったのかもしれない。
「社会の雰囲気が変わりつつある」と感じている。資本主義の行き過ぎに対する大きな反省である。
パワーポイントの原稿を昨日ようやくつくった。土曜日の徳島である、西日本科学史大会の講演準備である。
大体、25分の講演時間に対して、20分の講演と5分の質疑といわれている。一枚のパワーポイントは2分間は見せないといけないと一般にいわれているので、それだと10枚前後しか見せることができない。
しかし、それでは時間があまってしまうおそれもある。だから、およそ12,3のパワーポイントを用意する。時間はきちんと読めないが、説明をする、しないはともかくちょうど10枚しか用意しないとかいうことはない。
内容はまだrefineする必要があるかもしれないが、まあ昨日できあがったのはよかった。今日と明日になんどか点検をする余裕ができるからである。
金山浩司さんとか岡本拓司さんの「武谷三男論」の参考文献には武谷の『原水爆実験』(岩波新書)は引用されていない。これはどうしたことか。
また、技術に関係した雑誌「技術と人間」に掲載された、論文を参照していない。これが金山さんが武谷について、ちょっと偏った見解を持つ原因ではなかろうか。
これはメモだから、他人が読んでも役には立たない。
いろいろなエッセイを書こうとしているので、その自分自身へのメモである。ほぼ終わったものもあるが、ほとんどは、これからしなければならない仕事(順不同)である。
1.Pauli行列の導出(ほぼ書き上げ)(『四元数の発見』第7章の付録への補遺の原稿)
2.ベクトルの回転 (Rodriguesの公式)(図の入力が必要)(『四元数の発見』 第8章の一部の改訂の原稿)
3.対数とは何か(「徳島科学史雑誌」への以前の投稿原稿)(図の入力が必要)
4.ある定積分の求め方(ほぼ書き上げ)
5.倍角公式と半角公式(「加法公式から導かない方法」でかなりの加筆と図の入力が必要)
6.加法公式の導出いろいろ(『数学散歩』所収のエッセイの改訂増補版)(かなりの加筆と図の入力が必要)
7.新・三角関数(e-Learningへの付加部分)(これの完成は、まったく予想がつかないほど時間がかかる)
8.超幾何関数とそれで表されない関数
(8はすでに「超幾何関数1」として「研究と実践」(愛数協)にすでに掲載されたが、「超幾何関数で表されない関数」の部分が書けそうな感じがしてきた)
書き上げられたエッセイは12月発行の『数学・物理通信』に掲載予定である。もっともその数はあまりまだ多くはないし、ページ数も多くはないので、十分なページ数になるようにいずれかのエッセイを至急に仕上げなければならない。
11月11日11時11分にはドイツ語圏のカーニバル(Fastnacht)のはじまる日である。
これから勘定されたFastnachtである。冬の厳しい季節を通り抜けて春の訪れを感じるころにFastnachtがある。
Ich habe keine Sehnsucht nach Tokyo. (私には 東京にあこがれがない)
これは先日のドイツ語のクラスで私のした発言である。
die Sehnsuchtは「あこがれ」とか「憧憬」のことである。ドイツの冬は厳しいので春来るのを待ち焦がれる。だから、ドイツ人は春へのあこがれがある。いわゆるSehnsucht nach Fr"uhlingである。
昔の文化人、ゲーテがイタリアに憧れたように冬でもある程度暖かい地中海地方に面したイタリアに憧れる。
もちろん、たぶんイタリアとかスペインに旅行できる人は限られていたろう。だれでも、いまのドイツに住んでいた人々が旅行できたわけではあるまい。
昔、イタリア人の化学者ロラと友人だったが、その彼の母は銀行の頭取の娘だったとかで、リビエラに別荘をもっているとのことであった。ロラに来ないかと誘われたことがあったが、なかなかそこまで行くことはできなかった。
ロラは馬に乗るのが好きだと言っていたが、いつだったか馬から落ちて脚を折ったとか聞いた。それでちょっと脚をひずって歩いていた。彼とはフライブルクのゲーテ・インステュイートで同じクラスではなかったが、一緒にドイツ語を学んだ仲であった。
多くの論者が書かれている、「武谷三男論」との生の武谷三男とのずれがかなりあるという気が現在している。
ごく最近では、金山浩司さんの「武谷三男論」(『昭和後期の科学思想史』(勁草書房))が出色の出来栄えなのだが、それですらなにかとイメージがちがう。
『武谷三男著作集』『武谷三男現代論集』(勁草書房)だけを読んで武谷三男を論じると、どうしても金山浩司流の武谷三男のイメージになってしまう。これはこれで、やはり武谷の一面かとは思うが、武谷三男には、やはりそこにはつきない側面があると思える。
菅孝行の「反核思想と科学思想」(『日本の原爆文学』(ほるぷ出版)所収)などともやはり違うという感じを深くする。菅さんの論文の批判はすでに自著論文「他人から見た武谷三男4」(「徳島科学史雑誌」)である程度したのだが、それでもまだ十分ではなかった感じが今はする。
菅さんの論文は、ある人々からは優れた武谷三男批判であると評価されているのだが、やはりかなり一面的なとらえ方の感じがする。もちろん、そういう批判されるような側面を武谷がもっていたということは言えるのかもしれないが、そこからこぼれ落ちてしまった側面があるという風に感じている。