物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

11月11日11時11分

2019-11-12 11:59:07 | 日記

11月11日11時11分にはドイツ語圏のカーニバル(Fastnacht)のはじまる日である。

これから勘定されたFastnachtである。冬の厳しい季節を通り抜けて春の訪れを感じるころにFastnachtがある。

これらはカトリックの地方であり、最近ではプロテスタントの地方でもなんらかの祭りというかお祝いの行列があるとかも聞くが、やはり伝統的にはカトリックの地方のお祭りである。

ミュンヘンだとFaschingといい、ライン河沿線ではファスナハトFastnachtと呼ばれる。
それの始まりは11月11日11時11分にあるとは毎年ドイツ人のR氏から聞くことである。それを毎年忘れてしまうのだが、そういうことを毎年聞いているうちに、頭に残るようになった。

今年は令和になったとかで、日本ではJRの駅で記念の切符を昨日発売した。だが、これは日本では別にファスナハトとは関係がない。

Ich habe keine Sehnsucht nach Tokyo

2019-11-12 11:17:00 | 日記

Ich habe keine Sehnsucht nach Tokyo. (私には 東京にあこがれがない)

これは先日のドイツ語のクラスで私のした発言である。

die Sehnsuchtは「あこがれ」とか「憧憬」のことである。ドイツの冬は厳しいので春来るのを待ち焦がれる。だから、ドイツ人は春へのあこがれがある。いわゆるSehnsucht nach Fr"uhlingである。

昔の文化人、ゲーテがイタリアに憧れたように冬でもある程度暖かい地中海地方に面したイタリアに憧れる。

もちろん、たぶんイタリアとかスペインに旅行できる人は限られていたろう。だれでも、いまのドイツに住んでいた人々が旅行できたわけではあるまい。

昔、イタリア人の化学者ロラと友人だったが、その彼の母は銀行の頭取の娘だったとかで、リビエラに別荘をもっているとのことであった。ロラに来ないかと誘われたことがあったが、なかなかそこまで行くことはできなかった。

ロラは馬に乗るのが好きだと言っていたが、いつだったか馬から落ちて脚を折ったとか聞いた。それでちょっと脚をひずって歩いていた。彼とはフライブルクのゲーテ・インステュイートで同じクラスではなかったが、一緒にドイツ語を学んだ仲であった。

(注) 中学生のころ国語のO先生に「憧憬はどうけいと読むなよ。「しょうけい」だよ」と言われたものだが、いつのまにか「どうけい」と入力しないと「憧憬」がでて来ない時代になった。時代は変わる。

武谷三男論とのずれ

2019-11-12 10:29:40 | 日記

多くの論者が書かれている、「武谷三男論」との生の武谷三男とのずれがかなりあるという気が現在している。

ごく最近では、金山浩司さんの「武谷三男論」(『昭和後期の科学思想史』(勁草書房))が出色の出来栄えなのだが、それですらなにかとイメージがちがう。

『武谷三男著作集』『武谷三男現代論集』(勁草書房)だけを読んで武谷三男を論じると、どうしても金山浩司流の武谷三男のイメージになってしまう。これはこれで、やはり武谷の一面かとは思うが、武谷三男には、やはりそこにはつきない側面があると思える。

菅孝行の「反核思想と科学思想」(『日本の原爆文学』(ほるぷ出版)所収)などともやはり違うという感じを深くする。菅さんの論文の批判はすでに自著論文「他人から見た武谷三男4」(「徳島科学史雑誌」)である程度したのだが、それでもまだ十分ではなかった感じが今はする。

菅さんの論文は、ある人々からは優れた武谷三男批判であると評価されているのだが、やはりかなり一面的なとらえ方の感じがする。もちろん、そういう批判されるような側面を武谷がもっていたということは言えるのかもしれないが、そこからこぼれ落ちてしまった側面があるという風に感じている。

これが、現在今週の土曜日(11月16日)に徳島である、西日本科学史大会への講演準備中の私の感じである。

たぶん、武谷三男史料研究会のYさん、Nさんなども似たような感覚をすでにもたれているのではなかろうか。