メービウスMöbiusと聞いて理系の人なら、ああ裏も表もないねじれた輪を考えた人だなとすぐに思うだろうが、そんな名前など聞いたことがないというのが大体の反応だろうか。
本論に入る前にちょっと一言申し添えれば、三角法の書籍は E 大学(国立大学の一つ)のOPACで調べたところでは45冊か46冊ある。しかし、球面三角法だけが単独でタイトルの本はごくまれである。その現状はここに参考にした文献『球面三角法』の出版された1927年以来ほとんど変わっていない。球面三角法は現在でも平面三角法のお添えでしかない。
以下に記すメービウス小伝は新沼恒次郎『球面三角法』(冨山房、1927)に基本的によっている。時代がかった表現は現代風に変更している。もちろん逐語的にはしたがっていない。
「球面三角法の研究を始めたのはメネラウスMenelaus(100)であり、これに始まり、系統的に発展させたのはシュルツSchulz(1828)およびグーデルマンGudermann(1828)である」と前掲書の10ページにある。
さて、本論に入ろう。メービウスは1790年11月17日プロシャ(現ドイツ)のシュールポルタSchulpfortaに生まれ、1868年9月26日(明治元年)ライプチッヒLeipzigで亡くなった。
彼の父は舞踊の教師であったが、彼が4歳のときに亡くなり、彼の幼時は母および叔父によって育てられ、教育された。14歳から20歳までシュールポルタの学校に通い、その後ライプチッヒの大学に入学した。
入学後間もなく彼の志向は数学的科学に向かったので、数学者パッセPasse、物理学者ギルバートGilbert、特に天文学者モールヴァイデMollweide等の講義を聴講した。
1814年5月、25歳のときガウスGaussの下でさらに天文学を学ぼうとして、ゲッチンゲンGöttingenに行った。その年パッセが亡くなり、またモールヴァイデもまたそのうちに引退するので、つぎの年の4月にライプチッヒに帰った。これはライプチッヒ天文台のモールヴァイデの後継者になる希望をもっていたためである。
1814年12月11日に論文を提出しないで、ライプチッヒ大学を卒業し、1815年4月19日には数学の論文を提出して、大学講師の資格試験(Habilitation)に合格し、1816年には天文学の論文を発表し、また講演を行ってライプチッヒ大学の天文学員外教授(ausserordenlicher Professor)となり、同時に天文台の観測員となった。
彼がライプチッヒ大学の正教授(ordentlicher Professor)となったのは、1844年55歳のときであった。(以下、次週の(2)に続く)