(奈良県吉野郡吉野町 国指定名勝 吉野熊野国立公園)
大峯奥駆道を分かれ、西行庵のある「奧の千本」に差し掛かる。途中は昨日の雨によって、非常にぬかるみ、滑り易くなっていた。そして、訪れるものの足元、ズボンを汚した。故に目的地まで非常に時間がかかり、後の時間配分に影響が出てしまったのである。

奥の千本は、上の千本、中の千本、下の千本と合わせ、三万本の桜の中で一番高い標高であり、故に開花が一番遅い地点である。訪れたこのときは、奥の千本では思いのほか桜の本数は少なく、まだ蕾のもの、既に葉桜となったもの、あまり見頃感はなかった。然しながら、標高750mの緑に包まれた薄紅色は、他にない光景を現していた。
この奥の千本には、平安時代後期から鎌倉時代初期の僧西行(さいぎょう)が三年間暮らしたという。西行は武家に生まれたが、二十二歳のとき突然出家し、宗派には属さず諸国を流浪して歌を読み続けた。吉野に住した際に詠まれたとされる歌に「願はくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ」がある。
大峯奥駆道を分かれ、西行庵のある「奧の千本」に差し掛かる。途中は昨日の雨によって、非常にぬかるみ、滑り易くなっていた。そして、訪れるものの足元、ズボンを汚した。故に目的地まで非常に時間がかかり、後の時間配分に影響が出てしまったのである。


奥の千本は、上の千本、中の千本、下の千本と合わせ、三万本の桜の中で一番高い標高であり、故に開花が一番遅い地点である。訪れたこのときは、奥の千本では思いのほか桜の本数は少なく、まだ蕾のもの、既に葉桜となったもの、あまり見頃感はなかった。然しながら、標高750mの緑に包まれた薄紅色は、他にない光景を現していた。


この奥の千本には、平安時代後期から鎌倉時代初期の僧西行(さいぎょう)が三年間暮らしたという。西行は武家に生まれたが、二十二歳のとき突然出家し、宗派には属さず諸国を流浪して歌を読み続けた。吉野に住した際に詠まれたとされる歌に「願はくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ」がある。





