(岐阜県羽島市竹鼻町)
二年振りに羽島竹鼻に訪れる。この時期は、竹鼻別院の藤の花咲く頃であり、付近は活気に溢れていた。
竹ヶ鼻城は現在、市街地となっており、往時の面影は全く無い。金沢城兼六園成巽閣に所蔵されている「四戦の図」屏風に竹ヶ鼻城と称する城が描かれており、その配置から推定され建てられた、「竹ヶ鼻城本丸之趾」の石碑が竹鼻別院西方にあったが、現在は羽島市歴史民俗資料館前に移されている。
応仁年間(1467-68)竹腰尚隆によって城が築かれ、土岐氏臣長井(斎藤)利隆、道利、不破綱村、広綱と続いた。織田方の不破氏は城郭を拡大し充実を図ったが、天正十二年(1584)小牧長久手の戦いの際、羽柴秀吉勢によって水攻めに遭い落城している。その後、秀吉臣一柳直末、池田輝政臣伊木忠次、森寺高良と続き、慶長五年(1600)杉浦重勝のとき関ヶ原の戦いで重勝は西軍に属したため、東軍によって攻められ落城、重勝は自害している。
(関連記事:竹鼻街道 竹鼻大仏)
二年振りに羽島竹鼻に訪れる。この時期は、竹鼻別院の藤の花咲く頃であり、付近は活気に溢れていた。
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応仁年間(1467-68)竹腰尚隆によって城が築かれ、土岐氏臣長井(斎藤)利隆、道利、不破綱村、広綱と続いた。織田方の不破氏は城郭を拡大し充実を図ったが、天正十二年(1584)小牧長久手の戦いの際、羽柴秀吉勢によって水攻めに遭い落城している。その後、秀吉臣一柳直末、池田輝政臣伊木忠次、森寺高良と続き、慶長五年(1600)杉浦重勝のとき関ヶ原の戦いで重勝は西軍に属したため、東軍によって攻められ落城、重勝は自害している。
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