(2001年7月13/14日)
初日は、港湾倉庫群のあったところに造られた、開場して間もないUSJに訪れた。
大勢の人でごった返し、目新しさもあり盛況であったが、アトラクションの故障、トラブルも多く、まだまだ課題も多そうだ。
夜は道頓堀、法善寺、宗右衛門町、アメリカ村辺りで夜を過ごした。
次の日は大阪城公園に立ち寄った。
天正十一年(1583)豊臣秀吉が築いた、大坂城。大坂冬の陣、夏の陣で落城し、徳川の城郭となった。現在の天守は、戦前の昭和6年に築造され、空襲の難も免れたが、櫓等の一部は焼失してしまった。何度か天守の維持修理が行われているが、豊臣、徳川時代に焼失した天守よりも長い時期を経過する、今の天守である。
その後、吉本新喜劇NGKに寄り、コテコテの浪花文化に浸った日程は終わった。
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勾配25度、荷台の牽引車が付いたケーブルカーに乗り美女平から麓へ、そして地鉄電車で常願寺川と共に下って行く。
常願寺川は、全長56kmの内、平野部を除く38kmの間に標高差が約3,000mある日本一の急流河川である。
富山平野を走る頃には、すっかり曇天となってしまっていた。
途中の小さい駅舎も、かなり懐かしい感じのする光景であったが、付近に存在する石仏や墓碑が塔のように聳え立っていた。豪雪地帯だけに、埋没しないよう土台を設けてあるようである。
やはり、平日に訪れたため、かなり乗り物が空いていたことがかなり印象的であった。休日であれば、これほど余裕はなかったと思う。
時間に少し余裕があったので県都市街地を散策。そんなに都会という感じではないが、室町時代からの城下町。空襲により古い風情は残されてないが、それなりの落ち着きは感じられた。
富山城の木造天守は、戦後の昭和29年に復元されたものである。
16:55富山を後にする。途端豪雨になり始めた。そのためか、3両編成の「ひだ号」に高山で折り返し連結する、7両列車が到着できず、約1時間待たされてしまった。4時間半にわたって高山線に乗車し、陽も暮れていたこともあり、一番長く感じたときであった。然し、今の私にとっては、今回のような形での「充電」が最も有意義であったことには違いないと思う。
(関連記事:越中岩瀬 路電富山港 富山平成二十四年 よまんまいかー号 富山城平成二十四年 路電富山)
黒部平でケーブルカーから途中に中継柱のない索道に乗り換え、2315mの大観峰に到着。この付近までくると残雪が大量に存在する。
再び、無軌条電車で立山連峰の地下をくぐり、2450mの室堂高原に到着。
ここでは一番時間をかけて散策。雷鳥には遭えなかったが、様々な高山植物を見ることができた。
気温は10℃、走りまわっても空気が薄いなどとは感じられなかった。
スカイブルーの空と、エメラルドグリーンのみくりが池、そして雪渓のコントラスト。
水と緑に生きる私にとって、自分色に塗りなおすような時間であった。
然し、天気が下り坂ということで、早め早めの移動。
高原を下る頃から、辺りはガスが立ち込め始めた。
下界に近づくにつれて気温も夏を思い出すように高くなってきた。
やがて杉の原生林にさしかかると美女平へ。
この地点で977m。我が故郷本宮山よりよっぽど高いが、昼過ぎということもあってか、かなり暑く感じた。
この辺りではカルデラを見ることができる。
そして立山連峰から発する常願寺川に沿って富山市へと向かう。
朝靄の安曇野を快走、大町へ。
標高712m、夏ながら朝5時はさすがに寒く感じた。
待ち合わせの時間があったので、付近を散策、思ったより田舎といった感じであった。
バスで18km、扇沢へさしかかる頃には不安に思っていた天候も一掃するようにニッポン晴れとなった。この地点で1433m、ここから無軌条電車で後立山連峰の下をくぐり富山県内へ。
6kmのトンネルをくぐると、地中駅に到着。ここから220段の階段を登り1508mの展望台へ、黒部湖と立山連峰が一望できる。
ダム放水による虹も見えた。
日本一の高さ、186mのくろよん堰堤を抜け、地下駅からケーブルカーで1828mの黒部平へ向かい、更に2315mの大観峰へと向かう。
(トップは赤牛岳と黒部湖)
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(関連記事:アルペンエントランス 中綱湖 青木湖 安曇野2007秋)
およそ十年振りのこの地。辺りは然程変化を見せていない。唯一変わったのは、豊川用水の取水口が新しくなったことくらいである。特に、榎下のお井戸の泉は以前と変わりなく、水天宮さんも密やかに佇んでいた。この地に居た、五千年前の人々の感触を再び味わった。
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(1994年10月25日の日記)
三河大野の地に降り立つのは10年振りである。豊川水系宇連川左岸段丘上に位置する、縄文時代からの榎下遺跡を踏査した。断層から染み出る清水、お井戸の泉には水天宮の木祠が祀られ、その前には飲料用、灌漑用、洗濯用と順に水槽が設けられており、上屋が建てられている。この地での五千年間の人々の営みが思い浮かべられる。
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(関連記事:赤引服部神社)
(2002年7月13日の日記から)
私は、ひととき身を隠すため戸隠へ向かった。
午後から雨という予想だったが、麓は未だ晴れており、崩れないうちに早速向かうこととした。
山岳地帯に多数の民家が点在し、このような地形に来るといつも思うが、平衡感覚が麻痺してしまう。
「中社」に到着。
ここもそうだが、道中殆ど人を見かけないのに、現地は人だらけ。不思議である。
この地は、蕎麦屋と竹細工の店を多く見かける。
中社から奥社へ向かう。
道中、宿坊が多く立ち並んでいた。
神職が主に営んでいるようだが、近年脱サラ組のペンションが増えだしたということだそうである。
戸隠信仰は、「天の岩戸」が飛来し、現在の戸隠山の姿になったところから始まるという。
奥社の祭神は、天手力雄命(アメノタヂカラヲノミコト)、中社祭神は、天八意思兼命(アメノヤゴコロオモイカネノミコト)である。
雨がぱらついてきた。当初の予定は前日出発し、朝から余裕をもって散策する筈だったのであるが、今の私にその様な暇があるわけもなく、結局参道に差し掛かる頃には本降りとなってしまった。
予定も大幅に変わり、参拝以外何もできなくなってしまった。それでも多少なりとも自然と神秘に触れたので、満足している。
(写真は順に、鏡池、戸隠中社三本杉、戸隠山(1904m)、随神門、戸隠奥社参道杉並木、戸隠大神額)
(関連記事:蔵前手力雄神社 那加手力雄神社)
ではなく、パソコンと周辺機器をつなぐUSBハブである。
実はこのハブ、一昨年から使用していたが、昨年急遽使えなくなった。
電源は入るが、USB機器を感知しない…。
原因は、OAタップの電源供給ON/OFFにあったようだ。
電源の入ったパソコンとつながった状態でハブの電源供給スイッチを切ったため、起きた現象と思われる。
それ以来、小さいハブをつなぎ合わせ使用していた。
フッと放置してあったハブに目がいった。
何気につないでみると感知し完治していた。
元通りつなぎ合わせ、元の鞘に治まった…。
現在の川幅は20m前後であるが、河川改修前は13m前後、更に昔は5m程しかなかったという。
故に氾濫も多かった。
宮本橋は、1967年に築造され、それまで架かっていた木造橋を改築したものである。
【データ: 橋長15.4m、橋幅4.2m、SG(スチールガーター:鉄桁)方式橋】
その後治水対策に伴う河川改修工事で川幅が拡がることとなり、取り壊された。
1986年からこの光景は続いている…。
(三重県伊勢市 1990年7月5日の日記から)
祖先縁の地、伊勢を訪れた。
先ず教育委員会の岩中氏のお話しを聞き、続いて大正12年に宇治山田郵便局の電話分室として建設されたものを、昭和60年に市郷土資料館として開設されたこの資料館では、伊勢市の原始から近代までの歴史を見学した。
そして豊受大神宮(外宮)・土宮・風宮・多賀宮の順に拝した。
続いて皇大神宮(内宮)へ向かい、五十鈴川に架かる宇治橋を渡り、五十鈴川の清流で身心を清め、正宮を拝した。
この日は秋篠宮殿下・紀子さまが、伊勢神宮への結婚報告前日の日で、警備がやや厳重であった。
神都前で参拝客によって栄えた、赤福餅舗に寄り、お伊勢まいりの楽しみの一つというものを感じた。また店内には“五十鈴蔵”があり、そこには神宮神事の様子をミニチュア人形で表現していた。
赤福から少し歩いたところにある、猿田彦神社を参拝し、近くにあるお伊勢まいり資料館を観覧、ここではお陰まいり、参宮道中などを和紙人形で再現し、パノラマ方式で展示されていた。
続いて倉田山にある神宮の博物館「神宮徴古館・農業館」を訪れ、装束神宝・祭典資料・考古歴史資料・慶光院上人資料・遷宮奉賛品・農林水産資料等を見学した。
最後に、薬医門をくぐり、明治40年に開設された神宮古文書、各学術図書等27万冊所蔵されたいる神宮文庫を訪ねた。
以前書簡で我が家祖先の資料の有無を神宮司廳の矢野氏に問い合わせをし、文庫担当の石井氏から書簡が返ってきた。そこで今回更に詳しいことを知るために石井氏にお会いし、関係資料を調べて頂いた。
今回の伊勢市訪問の目的は、第一に伊勢参宮、そして祖先が住した地を調べることと、伊勢地方への散策範囲拡大等、沢山のことを含んだ第一歩であった。
(関連記事:神都伊勢平成二十五年 伊勢宮川 終詣 伊勢本街道)
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