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私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

知られざる北の国境(?)

2014-12-01 22:11:46 | 講演・講義・フォーラム等
 北海道新聞の記者である相原氏は、北千島、択捉、樺太北緯50度線と三つの北の国境(?)を目撃したという。これらのところは一般人には立ち入れないところだという。三つの国境を目撃した日本人は他にはいないのではないかと、相原氏はいささか誇らしげに話した。私たちは相原氏が撮影した動画や画像を興味深く見入った90分間だった。 

 11月27日(木)、今年度7回目の「かでる講座」があった。いろいろと予定が重なり、今年度は2回目の参加である。
 今回は北海道新聞社の編集委員を務める相原秀起氏が「知られざる北の国境」と題しての講演だった。
 その「知られざる国境」とは、北千島列島とカムチャッカ半島に存在した日本とロシアの国境、そして戦前に北樺太と南樺太の間に引かれた北緯50度線の国境、さらには現在日本が主張する北方四島と残りの北千島列島の間にあるだろう択捉島沖合の国境の三つである。

          
          ※ 精力的に自らの体験を語る相原秀起氏です。

 前者の二つは戦前に引かれていた国境線、三つ目のそれは日本が主張してはいるもののロシアが認めていない国境線、と全てが現在の正式な国境線とは言い難いものであるため、敢えて私はタイトル名の後に(?)を付け加えた。
 そしてお話は、前の二つのことだけで、後者の択捉の国境については触れなかったのは何故だろう?

 まずは、北千島列島の東端にある「占守島(シュムシュ島)」から見た占守海峡のことだった。北海道から占守島に渡るために実に13日間も要し、占守島の西隣の島「幌筵島(パラムシル島)」に着いたという。交通機関がまったく整っていないためだ。
 幌筵島には現在、漁民など数百人が居住しているということだが、占守島は灯台職員4人が在住するのみの島だという。

 占守島は太平洋戦争末期、占守島を防御していた日本軍と、ポツダム宣言後に上陸したソ連軍との間に激戦が繰り広げられた地として知られている。
 島には戦闘機や戦車の残骸、防衛陣地の跡などが今なお残っていて、それらを映像を通して見ることができた。また多数の遺骨が眠っていて、その一部を目にすることもできたという。国境を目撃したというよりは、国境が置かれていた島を見たということの方が適切な言い方だろう。

          
          ※ 道民カレッジのスタッフが、今回の講座を手書きでPRしたようです。

 次に、戦前に南樺太と北樺太を分けていた北緯50度線の国境跡である。
 戦前の北緯50度線(旧樺太国境線)は東西131キロにわたって一直線に引かれ、幅10mにわたって森林が伐採され、そこに国境標石4つが建てられたそうだ。
 話はその4つの国境標石の行方についてであった。相原氏は、その4つの国境標石の一つ4号標石の台座を確認したという。旧国境線に立った時、確かに森林を伐採した国境線痕跡を見ることができたという。

 さて、肝心の国境標石の行方だが、第1号標石はユジノサハリンスクの博物館に収蔵・展示されている。
 第2号標石は河原氏も関わり日本に帰還し現在根室市の資料館に所蔵されている。
 第3号標石は行方不明となっているということだが、1938年(昭和13)当時の人気女優、岡田嘉子と演出家・杉本良吉が「標識を見たい」と偽って国境を強行突破しソ連領内に駆け込んだ事件をエピソードとして披露された。
 第4号標石は地元営林署によって破壊され、その後幾多の運命を辿りながらも、現在ロシア民間人の手にあることを相原氏は確認したそうだ。

          
          ※ 根室資料館が保存する2号標識の日本に面する側の彫刻には菊の御紋が彫刻されています。

          
          ※ 一方、ロシアに面する側には、当時のロシア帝国の紋章である双頭の鷲が刻まれています。

 今回の話を聞きながら、相原氏の来歴と国境探訪の旅の相関関係を思っていた。相原氏は北大探検部出身だそうだ。今回の国境探訪の旅は、占守島に至るまで13日間もかかったり、旧樺太国境線に至るために6輪駆動車に揺られながら道なき道を進んだりと、それはまるで探検そのものという感じだった。そのことを相原氏はどこか楽しみながら語っていたように思われた。
 氏のライフワークともいえる日ロ国境(新旧とりまぜて)について、自らの趣味趣向を活かすとともに、社の仕事ともしている相原氏を羨ましく思った私だった。