蠣崎波響作の「夷酋列像」は、アイヌの酋長たちを色鮮やかに描いた秀作として名高いが、その制作意図は多分に松前藩の政治的な意図が背景にあったという。「夷酋列像展」が開催されている北海道博物館で開かれた講演会を聴いた。
蠣崎波響の「夷酋列像」については、2009年の北海道放送大学講座でその存在を初めて知り、多少は興味を抱いていた対象だった。その「夷酋列像展」が現在北海道博物館で開催されている。私はまだ見ていないが、見るからには「夷酋列像」についてもっと深く理解してから本物に触れようと、9月20日(日)北海道博物館で開催された関連イベント「夷酋列像とアイヌ文化」と題する講演会を聴くことにした。
講師は当初、北大先住民センター所属で、アイヌ民族史が専門の佐々木利和教授が務める予定だったが、病気のため急遽、文学研究科所属ではあるが先住民センターにも所属して佐々木教授と研究を共にし、指導も受けている谷本晃久准教授が務めた。
したがって、講演内容そのものは佐々木教授が構想したものだとの断りがあった。
※ 講座を担当した谷本晃久准教授です。
講座はまず、「夷酋列像」という名称について触れた。「夷酋列像」と名付けたのは蠣崎波響自身ではなく、波響の叔父で、当時の松前藩の家老だった松前広長が命名したものだそうだ。
その名の由来だが、「夷」という字には、東方のえびす(情を解さぬ荒々しい人)とか、殺す、皆殺しにするという意味があるようだ。そして「酋」は、おさ、かしら、あるいは未開人のかしらと解される。「列」は、ずらりと横に並んだもの、「像」は姿や形である。
つまり、松前広長は蠣崎波響が描いた12人のアイヌを、東方に住む情を解さぬ荒々しい未開人のかしらたちが並んだ図、と命名した。そこには、当時の和人がアイヌをどのように見ていたかを良く表しているように思える。
※ 「夷酋列像」12体の中でも特に有名な2体を載せます。こちらはツキノエです。
ところで、「夷酋列像」に描かれているアイヌの酋長たちは全て松前藩に恭順の意を示したアイヌたちである。1789年に勃発したクナシリ・キイタップの戦いで和人に反旗を翻し、和人を襲った酋長たちは皆処刑されているのである。
リード文で触れた「政治的な意図」についてだが、時代背景として当時は和人に対するアイヌの反抗が顕著な時代であった。幕府としては、それまで蝦夷地を松前藩に任せていたが、それでは不安だと考え幕府直轄とする案が浮上し、松前藩としては大変な危機を迎えていた時期だった。
そんな折に勃発したクナシリ・キイタップをアイヌの酋長たちを説得して反乱を収めたことを幕府にアピールする必要があったようだ。
※ こちらはイコトイという酋長です。
そうした背景をもちながらの「夷酋列像」であるから、研究者は「夷酋列像」を虚構の図であると喝破した。つまり、波響はアイヌたちにあのような衣装を着せてそれを写実してのではない、という。
それは、アイヌが着ている衣装は「蝦夷錦」という中国製の絹織物であり、履いている靴は洋風のもの、手にする兜などは当時の貴重品である。こうしたことを考えていくと、「
夷酋列像」は波響の中で考え描かれたものであるという可能性が非常に高いという。
したがって、「夷酋列像」は当時のアイヌの実態を表したものとはほど遠く、アイヌの民俗(民族)資料としての価値はほぼないと研究者間では評価されているようだ。
なのに、なぜ「夷酋列像」に注目が集まるかというと、蠣崎波響の細密画的な繊細に描画と鮮やかに色彩が幕府の中央で注目されることとなり、各地に模写が次々と生まれたことによるようだ。
まだまだ「夷酋列像」隠されたストーリーがあるようだ。
私は26日(土)の赤れんが講座「館長 × 学芸員トーク『夷酋列像』展見どころ紹介」の講座も受講を予定している。
私は「夷酋列像」についての理解を深めたうえで、「夷酋列像展」に出かけようと思っている。
蠣崎波響の「夷酋列像」については、2009年の北海道放送大学講座でその存在を初めて知り、多少は興味を抱いていた対象だった。その「夷酋列像展」が現在北海道博物館で開催されている。私はまだ見ていないが、見るからには「夷酋列像」についてもっと深く理解してから本物に触れようと、9月20日(日)北海道博物館で開催された関連イベント「夷酋列像とアイヌ文化」と題する講演会を聴くことにした。
講師は当初、北大先住民センター所属で、アイヌ民族史が専門の佐々木利和教授が務める予定だったが、病気のため急遽、文学研究科所属ではあるが先住民センターにも所属して佐々木教授と研究を共にし、指導も受けている谷本晃久准教授が務めた。
したがって、講演内容そのものは佐々木教授が構想したものだとの断りがあった。
※ 講座を担当した谷本晃久准教授です。
講座はまず、「夷酋列像」という名称について触れた。「夷酋列像」と名付けたのは蠣崎波響自身ではなく、波響の叔父で、当時の松前藩の家老だった松前広長が命名したものだそうだ。
その名の由来だが、「夷」という字には、東方のえびす(情を解さぬ荒々しい人)とか、殺す、皆殺しにするという意味があるようだ。そして「酋」は、おさ、かしら、あるいは未開人のかしらと解される。「列」は、ずらりと横に並んだもの、「像」は姿や形である。
つまり、松前広長は蠣崎波響が描いた12人のアイヌを、東方に住む情を解さぬ荒々しい未開人のかしらたちが並んだ図、と命名した。そこには、当時の和人がアイヌをどのように見ていたかを良く表しているように思える。
※ 「夷酋列像」12体の中でも特に有名な2体を載せます。こちらはツキノエです。
ところで、「夷酋列像」に描かれているアイヌの酋長たちは全て松前藩に恭順の意を示したアイヌたちである。1789年に勃発したクナシリ・キイタップの戦いで和人に反旗を翻し、和人を襲った酋長たちは皆処刑されているのである。
リード文で触れた「政治的な意図」についてだが、時代背景として当時は和人に対するアイヌの反抗が顕著な時代であった。幕府としては、それまで蝦夷地を松前藩に任せていたが、それでは不安だと考え幕府直轄とする案が浮上し、松前藩としては大変な危機を迎えていた時期だった。
そんな折に勃発したクナシリ・キイタップをアイヌの酋長たちを説得して反乱を収めたことを幕府にアピールする必要があったようだ。
※ こちらはイコトイという酋長です。
そうした背景をもちながらの「夷酋列像」であるから、研究者は「夷酋列像」を虚構の図であると喝破した。つまり、波響はアイヌたちにあのような衣装を着せてそれを写実してのではない、という。
それは、アイヌが着ている衣装は「蝦夷錦」という中国製の絹織物であり、履いている靴は洋風のもの、手にする兜などは当時の貴重品である。こうしたことを考えていくと、「
夷酋列像」は波響の中で考え描かれたものであるという可能性が非常に高いという。
したがって、「夷酋列像」は当時のアイヌの実態を表したものとはほど遠く、アイヌの民俗(民族)資料としての価値はほぼないと研究者間では評価されているようだ。
なのに、なぜ「夷酋列像」に注目が集まるかというと、蠣崎波響の細密画的な繊細に描画と鮮やかに色彩が幕府の中央で注目されることとなり、各地に模写が次々と生まれたことによるようだ。
まだまだ「夷酋列像」隠されたストーリーがあるようだ。
私は26日(土)の赤れんが講座「館長 × 学芸員トーク『夷酋列像』展見どころ紹介」の講座も受講を予定している。
私は「夷酋列像」についての理解を深めたうえで、「夷酋列像展」に出かけようと思っている。