夷酋列像に描かれた酋長たちの顔は、和人よりもむしろ西洋人に近いという。着物にできる皺の描き方にも西洋の技法が使われていたそうだ。12人を同じテーマで描くのも、中国の描き方を参考にしたようだ。また、酋長たちのポーズのとり方も…。興味深い話をたくさん聴くことができた〔館長 × 学芸員トーク〕だった。
9月26日(土)午後、道庁赤れんが庁舎において「赤れんが講座 館長 × 学芸員トーク 『夷酋列像』展の見どころ」を聴いた。
「夷酋列像」に関しては9月20日の北海道博物館の講演会に続いて2回目の受講である。
今回の講座は、北海道博物館の石森館長と学芸員の春木晶子さんの対話という形を採っていたが、実質的には今回の「夷酋列像」展の企画責任者であり、美術史学が専門の春木学芸員の解説を主としたものだった。
春木氏はまだ30歳前後と思われ、若くて才気煥発な印象を与える女性の学芸員だった。

※ 対談形式でトークを繰り広げた石森館長と春木学芸員のお二人です。
春木氏はまず、今回のポスターの特徴について触れた。今展示会のポスターの特徴は写真を見ると直ぐ気付くが、ツキノエとイトコイの二人の図が他の十人よりは際立って大きく表現されている。春木氏によると市内の若手デザイナーの作ということだが、依頼者・制作者とも若かったことが、こうした特徴あるポスターとして実現したのではないか、と私は思った。なかなかインパクトのあるポスターである。

※ インパクトを与えたポスターです。真ん中に、ツキノエとイトコイの二人を大きく配置した特徴あるポスターです。
次に酋長たちの顔の表情であるが、春木氏たちが調べたところ、作者の蠣崎波響は江戸へ絵師として修業していた時代に西洋の人物を描くこともあり、そうした彼の作品(粉本)を調べていくと、そっくりな表情をした西洋人の作品が残されていることに気付かされたそうだ。酋長たちと粉本に描かれた西洋人を同時に提示されると疑いの余地がないほど両者の表情は似ていた。
また、特徴ある酋長たちのポーズも、明らかに参考にしたと思われる波響の作品や西洋の作品が次々と見つかったという。中には明らかに難しすぎるポーズの絵もある。(例えば、唯一原本が見つかっていないという、イコリカヤニの後ろを振り返る図などは実際にはとりえないポーズのようだ)

※ 春木氏が実際にポーズをとっても無理だったイコリカヤニのポーズです。
そして、面白いと思ったのは、酋長たちが羽織っている蝦夷錦の着物にできた皺の部分表現法に二つの技法が使われていると指摘したことだ。当時の日本画の技法は線描によって皺を表現しているのに対して、洋画の技法では色の濃淡によって皺を表現している。それも同じ一枚の着物に二つの技法が使われているということなので、実際の作品でそのあたりをしっかり確認してみたいと思った。

※ チョウサマの図ですが、上に着た蝦夷錦の皺は線描です。下に着た赤い着物の皺は濃淡で表しています。
さらに、描く酋長たちを12人としたのも、屏風絵を意識したものだという。当時の屏風絵は〔六曲一双形式〕といって、6枚一組という考え方があり、12人というのはちょうどその倍ということを意識して描かれたと推測されるという。また、その描く順序にもしっかりとした意図があったようだ。
※ 鹿を背負ったノチクサの図ですが、このポーズにかなり無理があると言います。
まだまだ春木氏の口からは興味深い事実が次々と語られた。
先の講演で「夷酋列像」は明らかに政治的意図をもって描かれたものである、と教えられたが、今回の講座では「夷酋列像」がアイヌの酋長たちを前にして描かれたものではなく、波響のイメージの中で描かれたことがはっきりした。
なのに「夷酋列像」がこれほどまで注目されるようになったかというと、春木氏は「めつらし」と「まばゆし」という当時の言葉を紹介してくれた。
「めつらし」とは、珍しいという意味であり、「まばゆし」は立派なという意味だという。
つまり、「夷酋列像」はアイヌという和人にとっては珍しい人種を、波響が非常に繊細かつ精巧な描き方によって人々を驚かせ、幕府の役人はおろか、公家の人々、ひいては天覧にまで供されるというように、当時の世で話題沸騰となったようである。そのため、多くの模写や粉本が出されることにもなったということだ。
今回の展覧会には、ブザンソン美術考古博物館(フランス)所蔵の真物11点のほか、全国に点在する模写や粉本も一堂に展示されているという。とても興味深い。
二つの講演・講座を受講し、少しは「夷酋列像」についての理解もできたようである。
近いうちに北海道博物館を訪れてみたいと思っているが、とても興味深く「夷酋列像」展を見ることができそうである。
9月26日(土)午後、道庁赤れんが庁舎において「赤れんが講座 館長 × 学芸員トーク 『夷酋列像』展の見どころ」を聴いた。
「夷酋列像」に関しては9月20日の北海道博物館の講演会に続いて2回目の受講である。
今回の講座は、北海道博物館の石森館長と学芸員の春木晶子さんの対話という形を採っていたが、実質的には今回の「夷酋列像」展の企画責任者であり、美術史学が専門の春木学芸員の解説を主としたものだった。
春木氏はまだ30歳前後と思われ、若くて才気煥発な印象を与える女性の学芸員だった。

※ 対談形式でトークを繰り広げた石森館長と春木学芸員のお二人です。
春木氏はまず、今回のポスターの特徴について触れた。今展示会のポスターの特徴は写真を見ると直ぐ気付くが、ツキノエとイトコイの二人の図が他の十人よりは際立って大きく表現されている。春木氏によると市内の若手デザイナーの作ということだが、依頼者・制作者とも若かったことが、こうした特徴あるポスターとして実現したのではないか、と私は思った。なかなかインパクトのあるポスターである。

※ インパクトを与えたポスターです。真ん中に、ツキノエとイトコイの二人を大きく配置した特徴あるポスターです。
次に酋長たちの顔の表情であるが、春木氏たちが調べたところ、作者の蠣崎波響は江戸へ絵師として修業していた時代に西洋の人物を描くこともあり、そうした彼の作品(粉本)を調べていくと、そっくりな表情をした西洋人の作品が残されていることに気付かされたそうだ。酋長たちと粉本に描かれた西洋人を同時に提示されると疑いの余地がないほど両者の表情は似ていた。
また、特徴ある酋長たちのポーズも、明らかに参考にしたと思われる波響の作品や西洋の作品が次々と見つかったという。中には明らかに難しすぎるポーズの絵もある。(例えば、唯一原本が見つかっていないという、イコリカヤニの後ろを振り返る図などは実際にはとりえないポーズのようだ)

※ 春木氏が実際にポーズをとっても無理だったイコリカヤニのポーズです。
そして、面白いと思ったのは、酋長たちが羽織っている蝦夷錦の着物にできた皺の部分表現法に二つの技法が使われていると指摘したことだ。当時の日本画の技法は線描によって皺を表現しているのに対して、洋画の技法では色の濃淡によって皺を表現している。それも同じ一枚の着物に二つの技法が使われているということなので、実際の作品でそのあたりをしっかり確認してみたいと思った。

※ チョウサマの図ですが、上に着た蝦夷錦の皺は線描です。下に着た赤い着物の皺は濃淡で表しています。
さらに、描く酋長たちを12人としたのも、屏風絵を意識したものだという。当時の屏風絵は〔六曲一双形式〕といって、6枚一組という考え方があり、12人というのはちょうどその倍ということを意識して描かれたと推測されるという。また、その描く順序にもしっかりとした意図があったようだ。

※ 鹿を背負ったノチクサの図ですが、このポーズにかなり無理があると言います。
まだまだ春木氏の口からは興味深い事実が次々と語られた。
先の講演で「夷酋列像」は明らかに政治的意図をもって描かれたものである、と教えられたが、今回の講座では「夷酋列像」がアイヌの酋長たちを前にして描かれたものではなく、波響のイメージの中で描かれたことがはっきりした。
なのに「夷酋列像」がこれほどまで注目されるようになったかというと、春木氏は「めつらし」と「まばゆし」という当時の言葉を紹介してくれた。
「めつらし」とは、珍しいという意味であり、「まばゆし」は立派なという意味だという。
つまり、「夷酋列像」はアイヌという和人にとっては珍しい人種を、波響が非常に繊細かつ精巧な描き方によって人々を驚かせ、幕府の役人はおろか、公家の人々、ひいては天覧にまで供されるというように、当時の世で話題沸騰となったようである。そのため、多くの模写や粉本が出されることにもなったということだ。
今回の展覧会には、ブザンソン美術考古博物館(フランス)所蔵の真物11点のほか、全国に点在する模写や粉本も一堂に展示されているという。とても興味深い。
二つの講演・講座を受講し、少しは「夷酋列像」についての理解もできたようである。
近いうちに北海道博物館を訪れてみたいと思っているが、とても興味深く「夷酋列像」展を見ることができそうである。