「北海道開拓の父」とも称される開拓使初代判官・島義勇が札幌の街づくりを構想するために上った丘が「コタンベツの丘」と称されているのだが、その丘がどこだったのか諸説紛々ある中で、どうやら可能性が最も高いところが特定できた!?

※ 札幌市役所1階ロビーに立つ島義勇判官像です。
1月11日(木)午後、退職組織の新年交流会が某ホテルで開催された。その際に、今年は宴会に入る前に研修会が企画された。その研修会とは、今年が開道150年ということもあり、札幌(北海道)の成り立ちについて改めて思い起こすという意味も込めて、札幌市公文書館の榎本洋介氏が「島義勇判官の札幌本府地選定」と題してのお話するのをうかがった。
榎本氏の話は私にはとても興味深かった。
史実の上で、札幌を本府にしようという動きは、江戸末期の幕臣で探検家の近藤重蔵の時代に遡る。近藤は特に北国の探検に主として取り組んでいたようで、1803(享和3)年には5度目の蝦夷地入りを果たし、利尻島や札幌市周辺を探索したようだ。
その際、近藤は「ツイシカリ川(札幌川・豊平川)三里を上り、札縨(札幌)・樋平(豊平)の辺りぞ大府を置の地なるべし」という言葉を残している。
近藤から時代はやや下るが、やはり探検家として著名な松浦武四郎が蝦夷地を探検し、本府の選定について次のように語っている。「此辺に府を立まほしく思ふ。左候はゞ(そうろうはば)石狩を大坂とし、津石狩(対雁)を伏見と見、川筋三里を上り爰(ここ)を府に定め、銭箱(銭函)・小樽をして尼崎・西宮とし…(後略)」と、松浦も豊平川河口から三里上がったところに府を定めるのが良い、と主張している。
このことで、北海道の本府が現在の札幌の地に事実上決まったものと思われる。

※ 松浦武四郎の肖像写真です。
そして、本格的に札幌を本府にすべく乗り込んできたのが、開拓使初代判官・島義勇である。
史実によると、島は札幌の街を概観できる「コタンベツの丘」に上って、札幌の街づくりを構想したといわれている。そのコタンベツの丘に立って、島義勇は有名な漢詩を詠んだと言われている。その訳詩を紹介すると、
河水遠く流れて山隅に峙つ(そばだつ)
平原千里地は膏腴(こうゆ) ※ 膏腴~地味は豊かである。
四通八達宜しく府を開くべし
他日五洲第一の都

※ 北海道神宮内に立つ島義勇像です。
私の関心事は、島が札幌の街を概観し、街づくりの構想を練ったとされる「コタンベツの丘」がいったいどこなのか?ということである。
あの札幌市役所のロビーに置かれている島判官が遠くを望む像は、まさに「コタンベツの丘」から札幌の街を望んでいる姿である。
その「コタンベツの丘」は、その後の文書等に残されていないこともあって、やれ円山山頂だの、いや三角山の頂上だのと諸説紛々あって、今のところ特定はされていないようなのだ。
私は、私の浅はかな学習と現地をいろいろと探った結果、どうも北海道神宮内の高いところではないのか、とぼんやりと考えていた。
そこで私は思い切って、宴会にも出席されていた講師の榎本洋介氏に近づき尋ねてみた。「コタンベツの丘とは、榎本氏はどの辺りを指していると思われますか?」と…。
すると、榎本氏は「定説はないのだが、残された文書などから想像すると、円山公園内に『島判官紀功碑』が立っているが、それが大きなヒントではないか。つまりその紀功碑の延長線上の高いところではないか、と考えるのが自然のようだ」と答えてくれた。

※ 円山公園内に立つ「島判官紀功碑」です。
歴史を勉強されている方の中には異説の方もあるかもしれないが、私としては榎本氏の言を信じたい。
実は、私が所属する「めだかの学校」の平成30年度の「野外講座」の学習計画を構想しているところなのだが、テーマを「札幌の古を訪ねて」と定めて、札幌開府前後の歴史の跡を辿ろうと計画している。その中で、「コタンベツの丘」にもぜひ立ちたいと考えていた。その意味からも今回の榎本洋介氏の「島義勇判官の札幌本府地選定」のお話は有益であった。

※ 札幌市役所1階ロビーに立つ島義勇判官像です。
1月11日(木)午後、退職組織の新年交流会が某ホテルで開催された。その際に、今年は宴会に入る前に研修会が企画された。その研修会とは、今年が開道150年ということもあり、札幌(北海道)の成り立ちについて改めて思い起こすという意味も込めて、札幌市公文書館の榎本洋介氏が「島義勇判官の札幌本府地選定」と題してのお話するのをうかがった。
榎本氏の話は私にはとても興味深かった。
史実の上で、札幌を本府にしようという動きは、江戸末期の幕臣で探検家の近藤重蔵の時代に遡る。近藤は特に北国の探検に主として取り組んでいたようで、1803(享和3)年には5度目の蝦夷地入りを果たし、利尻島や札幌市周辺を探索したようだ。
その際、近藤は「ツイシカリ川(札幌川・豊平川)三里を上り、札縨(札幌)・樋平(豊平)の辺りぞ大府を置の地なるべし」という言葉を残している。
近藤から時代はやや下るが、やはり探検家として著名な松浦武四郎が蝦夷地を探検し、本府の選定について次のように語っている。「此辺に府を立まほしく思ふ。左候はゞ(そうろうはば)石狩を大坂とし、津石狩(対雁)を伏見と見、川筋三里を上り爰(ここ)を府に定め、銭箱(銭函)・小樽をして尼崎・西宮とし…(後略)」と、松浦も豊平川河口から三里上がったところに府を定めるのが良い、と主張している。
このことで、北海道の本府が現在の札幌の地に事実上決まったものと思われる。

※ 松浦武四郎の肖像写真です。
そして、本格的に札幌を本府にすべく乗り込んできたのが、開拓使初代判官・島義勇である。
史実によると、島は札幌の街を概観できる「コタンベツの丘」に上って、札幌の街づくりを構想したといわれている。そのコタンベツの丘に立って、島義勇は有名な漢詩を詠んだと言われている。その訳詩を紹介すると、
河水遠く流れて山隅に峙つ(そばだつ)
平原千里地は膏腴(こうゆ) ※ 膏腴~地味は豊かである。
四通八達宜しく府を開くべし
他日五洲第一の都

※ 北海道神宮内に立つ島義勇像です。
私の関心事は、島が札幌の街を概観し、街づくりの構想を練ったとされる「コタンベツの丘」がいったいどこなのか?ということである。
あの札幌市役所のロビーに置かれている島判官が遠くを望む像は、まさに「コタンベツの丘」から札幌の街を望んでいる姿である。
その「コタンベツの丘」は、その後の文書等に残されていないこともあって、やれ円山山頂だの、いや三角山の頂上だのと諸説紛々あって、今のところ特定はされていないようなのだ。
私は、私の浅はかな学習と現地をいろいろと探った結果、どうも北海道神宮内の高いところではないのか、とぼんやりと考えていた。
そこで私は思い切って、宴会にも出席されていた講師の榎本洋介氏に近づき尋ねてみた。「コタンベツの丘とは、榎本氏はどの辺りを指していると思われますか?」と…。
すると、榎本氏は「定説はないのだが、残された文書などから想像すると、円山公園内に『島判官紀功碑』が立っているが、それが大きなヒントではないか。つまりその紀功碑の延長線上の高いところではないか、と考えるのが自然のようだ」と答えてくれた。

※ 円山公園内に立つ「島判官紀功碑」です。
歴史を勉強されている方の中には異説の方もあるかもしれないが、私としては榎本氏の言を信じたい。
実は、私が所属する「めだかの学校」の平成30年度の「野外講座」の学習計画を構想しているところなのだが、テーマを「札幌の古を訪ねて」と定めて、札幌開府前後の歴史の跡を辿ろうと計画している。その中で、「コタンベツの丘」にもぜひ立ちたいと考えていた。その意味からも今回の榎本洋介氏の「島義勇判官の札幌本府地選定」のお話は有益であった。