3月8日に続いて2回目です。集中して連載のようにした方がいいのかもしれませんが、当分は1週間に1回くらいの割合で掲載していきたいと考えています。
書くことがないときは、続けて連載していくかもしれません。
【平成12年(西暦2000年)】
⑥ 6月17日;
母と行くお悔やみの席何年ぶりか○×さん宅子どもと会うのは
○×さんは同じ町内に住む人で、母は元気な頃週に2回くらい○×さん宅で子どもたちの面倒をみる仕事をしていました。いわば、家政婦みたいな仕事をしていました。
そのうちのおばあさんが亡くなったということで、本当に久し振りに母と一緒にお悔やみに伺ったというわけです。
私としても、広瀬川で釣った鮎を何回か持って行ったことがありました。鮎が好きだったためです。
こういうときの母はきわめてまともです。この頃は四六時中呆けていたというわけではありません。
⑦ 7月14日;
母の呆けますます進むこの頃はどうしたものか仕方ないのか
何を言おうとしていたのか、はっきりはしませんが、多分この頃から「幻覚・幻視」が出てきたのではないかと思います。
幻覚・幻視については、これからも出てくるのではないかと思いますが、家族が茶の間でくつろいでいるときに、突然『はい!』と叫んで、玄関に行こうとするのです。
我々には全く聞こえないことですが、母には聞こえるのでしょう。我々が、「誰も来ていない」と言っても、母は「??が来ている」というのです。
この段階では、まだまだかわいいものです。
⑧ 7月15日;
白石へ母親連れておじの家一人竿出し明日に備える
白石は母の実家です。母の実の兄が健在でした。だから私としてもなるべく母を白石に連れて行こうと努力しました。親孝行のひとつです。
でもこのときは、実の兄に合わせるということもありましたが、白石川で鮎釣りをしようという魂胆もあったのです。一挙両得です。
今はあまりパッとしませんが、かって白石川は漁協がしっかりしていたこともあって、釣具メーカー主催の各種鮎釣り大会が開かれていました。
この日の翌日は、ダイワかシマノの東北地区大会が予定されていたのだと思います。大会で勝つためには、やはりリサーチが重要です。この頃は、「青葉カワセミ会」の他に「トーナメントチームZ5」にも入っていたので、なおのこと事前のリサーチが大切でした。
こうなると、母のことよりも自分のことになってしまうので、この辺でやめておきます。
⑨ 7月29日;
小国川夕焼け空を見上げれば思い浮かぶは母のことのみ
ちょっときざでしょうか。小国川は、山形県最上町と舟形町を流れ、最上川に合流する山形を代表する、いや東北を代表する鮎釣りのメッカです。
小国川は天然鮎の遡上も多いし、漁協の鮎に対する想いが素晴らしく養殖技術も高く、どこからも文句のつけようがない河川です。それだからこそ、今上流に穴あきダムを建設しようとしている山形県のやり方に納得いきません。(また長くなりそうなのでこれはここでやめときます。)
普通鮎釣りをしているときは、鮎釣りに没頭していて雑念等はあまり浮かばないのですが、このときはまだ母のいろんな症状というか状態に戸惑うことが多かったのでしょう。心の余裕がなかったのだと思います。
多分釣果は貧果だったでしょう。
⑩ 7月31日;
母の痴呆ますますひどく重くなりそれでも残るプライド誇り
痴呆に関するいろいろな本にも書いてありますが、人間は痴呆になってもプライドは残っています。
我々家族が母の行動にいらいらして、ついつい怒鳴ったり、大声を出したりしましたが、それに対して「なんでそんなことをいうのか、そんなことを言われる筋合いはない」というようなことを言っていました。
馬鹿にされているということが本能的に分かるのでしょう。人間というものは本当に不思議なものです。
写真は、昨日紹介した組合員証の裏側です。監視員も兼ねています。