今TBSのテレビ「金スマ」を見ています。奥田瑛二の奥さん安藤和津のお母さんのことをやっていました。
お母さんは「脳腫瘍」ということで、人格も変わり、歩けなくなっていくとともに、介護が大変になっていくということを如何にして乗り越えて行ったか、感動的に述べられていました。
妻と一緒に、お互い黙ったままで食い入るように見ていました。
今日は、3月8日、14日についで3回目となります。こういうやり方でいいのかどうか、迷いながら書いています。
【平成12年(西暦2000年)】
⑪ 8月1日;
調査員家庭訪問母の痴呆介護保険の介護度いくら
丁度介護保険法が施行されたのが、平成12年でした。介護保険は、要支援か要介護か、要介護の場合は介護度が1から5までの、どれに該当するか審査してもらうことになります。
審査は介護審査会が行うのですが、その審査のための資料を作成するために、調査員が実地に訪問して本人や家族に聞き取りをしたり、本人の状態をじっくり見ていくわけです。
そういう制度ができたのなら、早めに申請しておこうと考えたのでしょう。この日介護保険の調査員が来てくれました。
母もこの時点で80歳を越えていましたし、いろいろと持病があり、近くの内科にも通院していました。いわばかかりつけの医者のアドバイス等もあって、申請したのかもしれません。確か、医者の診断書も必要だったと記憶しています。
⑫ 8月16日;
母検査広南病院妻と行く八十分でようやく終了
かかりつけの医者のアドバイスだったでしょうか、脳の検査が必要だといわれ、脳の専門病院である広南病院を紹介され、車で診察を受けに行ったものです。
CTかMRIをとったのでしょうか、はっきりは思い出せません。(過去の日記を探し出してみれば詳しいことはわかると思いますが、そういう肉付けはしないで、記憶を頼りに思い出しながら書いています。ご理解願います。)
⑬ 8月29日;
検査した母の診断予想通りアルツハイマー型痴呆症
検査の結果は、予想通り「アルツハイマー型」でした。皆さんご存知のように、痴呆症には「脳血管型痴呆」と「アルツハイマー型痴呆」があります。
脳血管型は治る可能性があるのですが、残念ながらアルツハイマー型は現在の医療では治療は不可能と言われていました。薬を飲んでも、症状の進行を遅らせるだけということでした。
検査の結果を現実として受け入れなければなりません。受け入れた上で、最善を尽くしていくより他はありません。自分に言い聞かせました。
⑭ 9月6日;
確実に進むわが母痴呆症アルツハイマー治る見込みなし
現実は厳しく容赦のないものです。この頃は、夜になってもきちんと寝てくれなくて、家族はいらいらさせられ、睡眠不足気味でした。
というのも、一旦はベッドに入ってくれたものの、我々が寝ようとする頃に起き出したり、騒ぎ出したりするのです。騒いでもベッドに入ったままならまだしも、起き出して歩き回るのです。
そうなると、最初は妻と二人で一回に降りていって、ベッドに寝かしつけたり、頻繁になってくると、妻と交互に下に下りていって、引き戻したり、寝かしつけたりするようになりました。
部屋から出たかどうかは、音で分かるようにしました。ふすまを開けて廊下に出るときに、必ずマットのようなものを踏ませるようにしました。マットに上がれば、音がして2階にも分かるようにしたわけです。多分徘徊老人用の商品です。
⑮ 9月13日;
泣いた母泣かせた母を泣いたまま放っておけるこの心は何
この日何があったのかは思い出せません。だけど⑭のようなことが何日も続いたり、ベッドに戻そうとしても抵抗して言うことを聞いてくれなかったりしたときには、お恥ずかしいことながら、怒鳴りつけました、実の母親を、夜中に。
母には感情は残っていますから、母も悔しかったりして泣きました。なんでこんなことをする!といいながら。なんでこんなことをされなければならないのか!といいながら。
でも、私は外にも聞こえるくらい大きな声で怒鳴ったりしました。何で言うことを聞いてくれないのか、何でおとなしく寝てくれないのか、何で寝せようとするのに抵抗し、暴れるのか、そういう自分の母親をみていると、自分が情けなくなって怒鳴りつけ、そしてそういう怒鳴りつける自分が嫌になり、自己嫌悪に陥ってしまう。
そういうことを繰り返す毎日だったと思います。