鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

あの日から、5年7か月

2016-10-11 15:42:48 | 思いつくまま

 午前中はいい天気だと思いましたが、午後になってからは曇りがちの空模様となりました。きのうもお知らせしましたように、市内の子どもたちは今日と明日は秋休みでお休みです。

         (午前11時40分頃かな)

 

 きょうも雲は私を楽しませてくれました。 9時半頃の雲は小さいいわし雲というのでしょうか、そういう雲で一杯でした。

 

 きょうは子どもたちが、結構な数の子どもたちが河原で遊んでいました。 子どもたちが一緒になって野球をしたりサッカーをしたり、思い思いのことをしたりしているのはいいですね。見ているこっちの方が嬉しくなってきます。

                     

             

  

 

 そのなかのひとつ、本当はサッカーのために河原に集まったのでしょうに、5,6人の中学生たちはサッカーよりも分流の中での魚取りに夢中になっていました。 ひとりだけ小さい網を持っていましたが、他の子はスーパー等の白いレジ袋を持ったり、あるいは素手だったりして自分流に遊んでいました。

   彼らです。

 虫かごに撮った小魚等を入れていましたので、見せてもらいました。また写真も撮らせてもらいました。 そうそう河原のクルミも拾っていました。 男だけの集団です。

              

 虫かごは小さいものです。写真では魚たちは大きく見えますが、実際は小さいです。可愛いです。ハヤとエビが見えます。やはりエビは多いんだな。

 

                           

 ヤゴも見えます。 黒いのはナマズではございません。ギバチですね。 なかにちゃんと知っている子もいました。 下の写真くらい大きければいいのですが実際はこの半分あるかどうかです。 

 

 こうやってみるとエビというのはしぶといというか逞しいのですね、見た目よりも。

   

 この魚は最初ヨシノボリかなと思いましたが、ちょっと違うようです。 よくよくみるとかって私が子どものころによく釣った、当時の名称では”カガピス”(カルピスではございません。)のようです。

   

 正式名称はカマツカとかいうのかな、もしかして。

 

 

 

  きょうは11日、あの日の月命日です。この日は市内のどこかで「メモリアル コンサート」が開かれています。きょうは近くの国際センター駅構内の「青葉の風テラス」で開催されるということで行ってきました。

 このコンサートは、「公益財団法人音楽の力による復興センター・東北」が企画制作しています。目的は、『いまあらためて、あの日への祈りと未来への希望をこめる』ことです。 正式な名称は、「地下鉄東西線 駅なか メモリアル コンサート」というものです。

 たっぷりとソプラノを聴いてきました。構成はソプラノ二人にピアの一人というものですが、ふたりのソプラノの歌唱力というか迫力にはまさに圧倒されたとしかいいようがありません。 いったいどうすればあれだけの声量が生まれるのか、出せるのか!!

 お二人とも体力は十分ありそうなのですが、それだけではあれだけの声量は出ません。まさに自分の体を一つの楽器として完全に一体となっている感じです。

 日本のうたと外国のうたを歌ったのですが、外国のうたではオペラの曲が多かったです。作曲者がプッチーニ、カッチーニ、マスカーニ、と続くと面白いですね。 モーツアルトもありましたが。

 最後は二つの”アヴェ・マリア”(カッチーニ作曲とマスカーニ作曲)を歌ってくれたのですが、その前に、どうしてもなくてはならないうた、忘れてはいけないうた”花は咲く”をみんなで歌いました。 この歌を歌うと、どうしても思い出す小説、物語があります。 いとうせいこうさんの「想像ラジオ」です。 なんか歌詞がこの小説と重なってきます。私だけなのかもしれませんが。それでもいいのですが。

 

 次の文章を是非とも読んでください、お願いします。

               

 『震災の3日後、顔まで泥をかぶった子どもたちの遺体が川べりに並んでいました。あんな光景、絶対にあっちゃいけないですよ。ただ、俺たちのいまが、過去の多くの人々の悲しみの上にあるのだとすれば、悲しみは価値のないものではないはず。起きたことを、未来にとって価値あるものにしなきゃいけない。そう思うんです。だから案内の最後に、こう語りかけます。ここを何かを生み出す場所にしてほしい、って。』

 『真相解明をめぐっても、市教委は責任逃れの組織の言葉ばかりで、子どもの命の話にならないんです。あのとき、子どもたちはどんなに怖かったか。目の前で子どもを亡くした先生たちはどんなに悔しかったか。そこを出発点にしてほしいのですが。』

 『あの日、先生たちは必死だったと思います。みんな、助けたいと思っていた。なのに助けられなかった。もう一人、覚悟をもって「山へ」と言えていれば、みんなで議論できていれば・・・・。でも、できなかった。想定外や初めてのことが起きたとき、いろんな意見が出るのは当然です。ただ、違う意見は批判と取られてしまう。自由に語りづらい。そんな日常の延長に、あの校庭があったのではないかと思います。だから講演でこう話すんです。「もしも」は「いつも」の中にある。』

 『震災直後に考えたのは、目の前の生徒にとって大事なのは何かということでした。人手が足りない、教材もない、混乱の中で通達は省略され、書類づくりも会議もない。それでも、学校は回っていた。何もないからこそ、本質に向き合うことができたのでしょう。逆に言うと、いかに必要ないものに囲まれていたか、ということです。見た目とか形式とか日程消化とかにとらわれていないか、上の指示やマニュアルに従っていればいい、と思ってはいないか。それで、いざというときに、大切なものを守れるでしょうか。きっと、日本のいろんなところに「大川小学校の校庭」があるんだと思います。だからこそ、空白の50分を解き明かすことが大事なのです。』

 『意見が違うからって敵じゃない。言葉を重ねるうちに何かが見えてくる、と信じたいじゃないですか。だって、敵じゃなくなれば無敵でしょ。』

                                   

 10月6日の朝日新聞のインタビュー記事です。見出しは、「大川小の校庭から」 です。語ったのは「小さな命の意味を考える会」代表 佐藤 敏郎さんです。元中学校教師で、娘さんを津波で亡くしています。

 とっても重い言葉が語られています。じっくりと考えています。

 

 


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