鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

10月もお仕舞い!

2016-10-31 16:38:45 | 思いつくまま

 きのう東京は渋谷では大いに賑わったようですね。 仙台ではまだまだのようですが、全国的にはバレンタインデーよりもハロウインのほうが商業的には売り上げが多くなっているとか、モーニングショーで言っていました。

                 

 

 仙台は、朝から空は雲に覆われていました。 まさにどんよりした天気の一日でした。まあそれでも風がなかったので、さほど寒さは感じませんでした。これが救いですね。 寒いのは嫌ですが、この際雨に降って欲しい。

          (午前9時15分頃)

 

        

 乾燥注意報も出たりしているようですし、何といっても遡上したくて多分うずうずしているであろうサケのためにも雨が降って、広瀬川が増水してほしい、増水といっても例年の水位になってほしいというささやかな願いなのですが、何とかならないものでしょうか。

                

        

 

 東日本大震災の影響で今年は前から遡上数はかなり減少するだろうとは予想されていましたが、であっても遡上が皆無ということはないだろうし、それなりの水量があれば故郷、生まれ育った川を目指して、最後の力を振りしぼって遡上して来るのではないかと思うのですが。希望的観測であることは否定しません。

 

       

 

 

 広瀬川の分流でサケの遡上を、遡上したサケの姿を見られないのは悲しく残念なことですが、石巻市長の言動にも、石巻市議会の採決にもああやっぱり、と大きな失望を抱かざるを得ません。

 市長は今回の大川小の判決に不服で仙台高裁に控訴することを決断し、市議会も16対10で可決しました。市長の言い分を認めました。もしかして票を何よりも重視する議会として、否決するかもしれないなとかすかな希望を抱いていたのですが・・・・。

 「死亡した先生方に責任を負わせることは辛い」と言います。「先生方」と言っていますが、なんのことはない、行政に責任があるということに納得いかないということも現れでしょう。行政の責任を認めるわけにはいかないということは、市長の考えの根本にはやはり「今回の大惨事は自然現象であり、想定外のことであった」という考えが依然としてあるということでしょう。74人の児童の命を、命のかけがえのない重みをどう受け取っているのでしょうか。

 学校では、特に小学校であればなおさら、先生方の力はとても大きく(親の言うことよりも先生の言うことの方を、二人の子どもは何回信用したか!)、大きいということはそれだけ責任も大きくて重いということになります。 いわば先生の言うことは「絶対」なのです。

 子どもはこどもの考えを持っていても、先生の言うこと、指導に逆らえません。だからこそ原告団が言ってきた『先生の言うことを聞いてきたのに!!』という言葉が悲しみとともに非常に大きな重み、意味を持つわけです。それが小学校だからです。

 今のように「津波てんでんこ」という言い伝えが広く知られて理解されていればと思ってもいまさらどうしようもないこと。どうしようもないと思っても思ってしまう。でもたとえ「津波てんでんこ」という言い伝えがみんなに共有されていたとしても、今回のような大川小学校の教頭以下の先生方であれば、子どもの自由に、自主性に任せるなんてことはしなかったでしょうね。そう思ってしまう、判断してしまう悲しさ。

 ここまでくれば前にも何回か言っていますが、先生方で唯一生き残った教務主任を裁判で証言台に立たせるしかありません。 裁判所に来れないのなら裁判所の方から出向くという手段もあるはずです。 教務主任の証言は市長にとっても必要なことだと考えます。それは貴重な記録等を破棄し、証言の録音もとってなかった市長・行政側の責任でもあることと思います。

 でもそれは最終的には裁判官が決めることではありますが、原告側だけではなく被告側からも教務主任の証言を請求すれば裁判官も認めることでしょう。是非ともそあってほしいと思います。真実を知るためにはあらゆる関係者の証言を集めることが何が何でも必要不可欠なことだと思います。 もう5年8か月になろうとしていますが、まだ6年弱しか経っていないとも考えることができます。 改めて初心に帰ってあの時大川小学校で何があったのか地道に検証してくべきだと考えます。 でないと亡くなった74名の児童、10人の先生方が浮かばれません。

 


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