(午前9時10分頃)
曇りがちですが、過ごしやすい一日です。午前中は、というか朝方は今にも降り出しそうでしたが・・・。
今日の子どもたちはいつもよりも楽しそうだった、と言いたいところですがそうでもなかったですね。市立の小中学校はきょうが一学期の終業となります。終業式が行われました。あしたからの三連休を利用して9日と10日を秋休みとして10日まで学校は休みとなります。
それで信号待ちの時子どもたちに、あしたから約1週間休みだねと話しかけるのですが、そんなに嬉しそうでもありませんでした。一年生はまだピンとこないでしょうが、2年生以上ならもっと喜びそうなのにと思ったのですが、大人と子どもの思いは違うのかな。
このブログでも子どもたちの登校時における持ち物があまりに多いのではないかと問題提起したことがありますが、解消のためには一自治体での対応は限界があるというか無理でしょうね。文科省としてきちんとした方針を打ち出さないと子どもたちの荷物の軽減にはつながらないでしょう。
今は子どもたちのランドセルもとってもカラフルで見ていて楽しいくらいですが、60年以上もむかしは赤と黒のランドセルしかなかったように思います。ランドセルというと私のそれは叔母からとても立派なものを買ってもらいました。皮製品だったかな6年間使ってもどこにも不具合は生じなかったように記憶しています。
そのランドセルについて、きのうの朝日新聞に面白い記事が載っていました。慶応義塾大の根本教授の「私の視点」”ランドセルと教育改革”です。 「ランドセルこそ、日本の学校教育の知育偏重と集団的統制主義を典型的に示すものだ」と言います。
そしてランドセルの起源として「そもそもランドセルはオランダ語のランセル(ransel)から来ていると言われ、幕末にオランダから導入された軍隊の背嚢が原点になっている。軍事用品が学校に導入されたわけだ。今のような革製の高級品が普及し始めたのは、昭和の高度成長期だった。新入学の祝い品として祖父母から贈られる『慣習』は今も残っている。」
そして、いまこそ「重荷を脱ぎ捨てる時だ」と、外国の例をだして論じています。
確かに明治時代の軍人の絵や写真を見ると、軍人が背負っている背嚢はランドセルの原点だったと実感できます。
根本教授には、「小学生がランドセルを背負ってぞろぞろ歩いている姿は、かってよく校庭に立っていた、薪を背負って本を読む二宮金次郎像のイメージにだぶって見えていしかたない。」そうです。 今はそんな時代ではなく、「すでに苦学力行のような価値観は過去のものとなっている。背負った重荷を脱ぎ捨てて、勉強が本来、楽しいものであることに気づかせたい。」と結んでいます。
でも、どうでしょうかねえ、これからの文教政策はますます復古調になっていくのではないでしょうか。今度の文科相柴山昌彦なる政治家はよっぽど独裁者の御眼鏡に叶うものだったのでしょうか、就任したばかりの会見で教育勅語について、”道徳などに使える分野がある”と率直に”語っていました。
また自民党の政治家に相応しく、戦後は権利ばかりが強調主張されて、義務や規律がおろそかにされたという歴史観をお持ちのようです。 彼の下でこれから一体どのような文教政策が展開されていくのか要注意です。
教育勅語の本質、核心部分は滅私奉公、いざという時には天皇陛下のために喜んで命を差し出せというところにあるのに、それで敗戦まで至ったというのに、本質に迫らず部分的にいいところがあるから道徳教育に活用できると言わんばかりの見識が信じられません。どこまで愚かなのか、呆れるだけです。
呆れると言えば、もうひとりいます。五輪担当相の鈴木俊一(こういう名前の東京都知事がかっていたような)ですが、国会答弁が不安だからと「原稿の棒読みでいい」と独裁者や官房長官のお許しが出ているとか。こちらも呆れます。答弁できないような輩を大臣にするなということです。
なんでそんな議員でさえ失格としか言えないような輩を五輪担当相にするのか。これで雲霞のごとく有能な政治家がいる自民党ですか。笑ってしまいます。情けなくて恥ずかしくなります。こうなると今となっては秋田出身の金田法相がの答弁が可愛く懐かしく思えますね。