鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

暑すぎます、

2020-08-16 14:42:02 | 思いつくまま

 

(この堤防の上りきったところに、よりによってこんなものが捨てられていました。呆れて文句も言えません。)

 (スイカでしょう)

今は夏です。私の大好きな夏なのです。夏は広瀬川等で鮎釣りができるのです。それが楽しみでした。7月は広瀬川が鮎釣りの川の状況になっていなかったことや鮎がいないことを嘆きました。

 

しかし、8月に入って、あまりの暑さに川に入ることをためらうようになりました。正直なところ、そのような自分に驚いています。この俺が、8月の中旬という鮎釣り真っ盛りのこの時期に川に入らないなんて、入ろうとしなくなったなんて、何という心境の変化でしょうか。自分でも信じられません。

 

あまりの暑さに体が言うことを聞かないのです。体が本能的に反対しているようです。ということは体力的にみて無理だ、無理をするなということでしょうか。今朝の広瀬川もいい流れです。水温も高くなっています。川底の石も滑るようになってきました。

 

少なくとも川の状況はいい感じです。いかにも鮎が住んでいるようです。(実際にはあゆはほとんどいなくなっているようなのですが。)この広瀬川を見て、今すぐにでも川に入ろうとしないなんて、しなくなったなんて、これは気力体力の衰え以外の何ものでもありません。ここまでくればもう正直に認めてしまわなければならないでしょう。

 

西暦1947年・昭和22年生まれ、間もなく満73歳になるしがない初老?の72歳の男、この心境の変化は今までなかったことです。心境の変化には体力の衰えが大きく作用しています。自覚せざるを得なくなってしまった、そこまで追い詰められてしまったということになるのでしょうか。それとも単なる歳をとった男の愚痴???であったらいい歳をとってはいませんね。

 

体力の衰え、疲労ということでいうとこの輩も相当疲れているようですね。共通項になんかなりたくないですが。 共同通信からの引用です。msnニュースから

 

【  自民党の甘利明税制調査会長は16日のフジテレビ番組で、新型コロナウイルス対応のため、連続勤務となっている安倍晋三首相の疲労蓄積を心配した。「ちょっと休んでもらいたい。責任感が強く、自分が休むことは罪だとの意識まで持っている」と述べた。甘利氏は首相側近。12日に1時間近く2人で会談している。

 首相は例年8月15日の全国戦没者追悼式に出席後、山梨県鳴沢村の別荘で静養に入るが、今年は東京都内の私邸に帰った。甘利氏は番組では「数日でもいいから強制的に休ませなければならない」と強調した。  】(引用終わり 拡大は管理者)

 

いやあ、知りませんでした、みなさんは知っていましたか??長州の独裁者が「責任感が強い」のだそうです。どこの誰のことを言っているのでしょうか。政治家の周りを見回してもそんな輩がいるなんて全く想像すらできません。ましてや、独裁者がそうだとは、いままでの国会答弁や記者会見等をみていったい誰がそう思うのでしょうか。無責任の極みじゃないですか。

 

さすが取り巻きです。取り巻き、側近にはそう見えるのでしょうか。開いた口がふさがりません。「休むことが罪だと」思っていると????側近、取り巻きになると、ここまで目が曇ってしまうものなのか。「何の」休みでしょうか?国会であることは絶対にありません、あり得ませんね。ということは夜の宴会ですか、もしかして。

 

出てくるのは皮肉ばかりです。川柳にどういう形で出てくるか、どんな風におちょくられるか、朝日川柳が楽しみですね。

 

この澱橋の左岸下流域、橋脚の左右に釣り人が二人いました。二人ともガラガケのひとです。

 

ひとりは左岸陸地から竿を出しています。この付近の川底は岩盤底ですね。だからあまり引っかかるものはないかもしれません。大きな鯉がいるところでもあるのですが、今はどうか?

 

またしても昔々のことですが、4月の末か5月の初めにこの周辺は釣り人でにぎわったものです。ニジマス釣りです。かわの左右に分かれて、お昼からか午後1時からだったか、釣りスタートでした。うまく回遊しているところに当たれば入れ掛りとなります。結構大きいニジマスですので、引きはもう充分楽しめました。

 

まあいっぱい釣れると、そのあとが大変です。全部自分でさばかなければなりませんので。まあ3枚におろして、フライにして食べるのが一番うまかったですね。

 

河原にはこういうゴミもありました。

 

 


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戦没者追悼式

2020-08-15 14:32:11 | 思いつくまま

 

いやあ、暑いです。めちゃくちゃ暑いです。今年一番の暑さでしょう。35度を超えました。猛暑日です。午後1時31分に記録した 35.5度 が目下の最高気温です。確かに今日は暑くなると言っていましたが、ここまで上がったかあ~。

 

この分では、全国では40度を超えた地域もあるのかな。38度、39度を記録した都市もいっぱいあるのでしょうね。暑いです。さすがに暑いです。文句を言う隙さえ全くありません。完璧な暑さです。

 

 

いやあ久しぶりに拝顔いたしました。拝聴いたしました。天皇皇后両陛下です。マスク姿でしたが、お元気そうで何よりでした。そして何より期待にたがわず、きちんと平和の大切さを訴え、不戦の決意を表明されました。

 

『 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。

 

 終戦以来75年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。

 私たちは今、新型コロナウイルス感染症の感染拡大により、新たな苦難に直面していますが、私たち皆が手を共に携えて、この困難な状況を乗り越え、今後とも、人々の幸せと平和を希求し続けていくことを心から願います。

 

 ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。 』

 

口先だけの独裁者は確か、いまだに南太平洋の諸島にほったらかしのままの旧日本軍兵士の遺骨の収集について言及したようですが、本当にやる気があるのかどうか、戦没者の追悼式だからということでの単なるリップサービスとしか思えませんし、だからこそその軽薄さが許せません。

 

きょうようやく食することができました。と書けばお分かりでしょう。そうです、お盆のおはぎです。午前中にデパートから買ってきて、お昼にはあんこ・ごま・きなこの3種類のおはぎを各1個ずつ食べました。美味いです。おはぎはいい!!大好きです!!!

      

      

やはりおはぎと言えば、秋保の佐市です。秋保で買うと、確かおはぎは”3個入り”になっていたような気がしますが、今はどうなのでしょうか。全国でも何回か放送されていますので、ご存じのみなさんも多いかと思います。 

2個入りのおはぎは、税込みで250円です。

 

たまたま見たこのブログの過去のものですが、言っていることはほとんどまったく変わっていないということにじぶんでもびっくりした次第です。12年前のものです。2008年の8月15日のブログです。再掲となります。

【 今日8月15日は、63回目の終戦の日、敗戦記念日。

 13日の朝日新聞です。見出しは、「国体護持へ『戦うべき』」 「東条元首相 終戦直前メモ」 というもの。

 太平洋戦争開戦時の首相だった東条英機が、昭和20年(1945年)8月10日から14日にかけて書き残した直筆メモが国立公文書館から公開されたそうです。

 中心は、ポツダム宣言が求める「日本国軍隊の完全武装解除」への懸念で、武装解除に応じてしまえば国体護持は「空名に過ぎ」なくなると主張し、「敵」が国体護持をを否定すれば「一億一人となるを敢然戦うべき」と上奏したとのこと。

 最後の14日のメモは、「道徳上の責任は死を以て御詫び」「敵の法廷に立つ如きことは、日本人として採らざる」と自決を示唆しているそうです。

 この期に及んでもこんな戯言としかいいようのないことをいっているのにはホトホト呆れてしまいます。 国民のことなんかどうでもいい、全ては国体が護持されるかどうか、されなければ一人になっても戦って死ね、ということ。

 そして一応は自決を試みるも、完璧な自決の方法も知らずに、心臓をピストルで狙うという形での自決、本当に死ぬ気があったのかどうか、甚だ怪しいものです。茶番劇の自決まがいの自決で助かり、結局は絞首刑。

 二重三重の恥の上塗りです。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓により、死ななくてもよかった兵隊が何十万人死んだことか。

 開戦時の政治家として、軍人として最高の地位にいた人間がこの有様。

 そういうA級戦犯を祀っている靖国神社に参拝する恥知らずの首相経験者たち。

 第一、270万人といわれる戦没者の半分以上の人たちの遺骨は帰ってきていません。東南アジアの地に埋もれたままです。失礼な言い方ですが、いわばほったらかしです。

 さらにいうならば、犠牲者のうちの大半は戦死ではありません。十分な武器を持って対等に戦って死んだのであれば、いわば軍人として、兵隊として本望といってもいいのかもしれません。

 戦没者の7割近くは、実は餓死や病死というではありませんか。逃避行のうちに飢え、病気になり、望郷の念にかられつつ死んでいったわけです。餓死するのならと、人肉食までさせられたというではありませんか。畜生道にまで落ちていったわけです。誰が責められるでしょうか。

 本当にたくさんの尊い犠牲者のお陰で現在の日本の平和があると思うのであれば、そのことを祈るために靖国神社に詣でるというのであれば、お金はいくらかけてもそれら野ざらしになったままだった遺骨、今は現地の土に埋もれているのでしょうが、その遺骨を探し、日本に持ち帰るべきとは思わないのでしょうか。最後の一人になるまで遺骨は持ち帰るという気持ちにはならないのでしょうか。

 

そういう肝心なことを抜かして、軽々しく英霊だなんていうべきではありません。祖国のために死んでいったと本当に思うのなら、また本当に顕彰したいと思うのであれば、なぜ遺骨収集を再開しようとしないのでしょうか。

 それこそが本当に戦没した兵士を弔うことであり、平和のありがたさ、尊さを身をもって感じることにならないでしょうか。

 いつまでも戦後は終わらないことになりますが、それでいいと私は思っています。愚かなことをくり返さないためには、それしかないし、そうすることによって、継続することによって、依然として世界から戦火は途絶えませんが、戦争をしている国に対して戦争をするなと強くいえるのではないでしょうか。

国連の舞台で、平和の尊さを訴えることができるのです。

 

 そんなことを考えた今日、8月15日でした。 合掌 】(再掲終わり)

 

 

 

 

   

 


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自然界の生存競争

2020-08-14 14:11:41 | 思いつくまま

今日も暑いですが、そうはいってもきのうまでと比べるとかなり涼しい部類かなと思ってしまいます。というのも最高気温が目下のところ29.5度(午前10時9分)で、30度になっていないからです。30度以下というだけでなんか嬉しくなりませんか。

 

昨夜は外から入ってくる風がととっても涼しかったです。川風が入ってきてくれたのかどうか。2階の窓は網戸のままにしています。この頃はそれでも涼しい風は入ってきませんでしたが、昨夜は本当に気持ちが良くて、逆に毛布をもう一枚掛けないとまずいかなとさえ思いました。結果はそのままでしたが。

 

それでも仙台管区気象台発表では午前5時の気温は24.7度です。我が家の環境ではもっと低い感じでした。12日の午前5時は27.3度、13日は26.6度でした。

 

仙台はは11日から猛烈な暑さに見舞われていますが、毎正時の気温を見てみるとすごいことが分かります。11日の最高気温は34.7度でしたが、午前9時から午後7時までの10時間の気温は30度オーバーでした。

 

12日はお昼から午後7時までの7時間が30度超えで、13日は午前9時から午後6時までの9時間が30度超えでした。きょう14日はまだ一回も30度を超えてはいません。ありがたいことです。でもあしたからまた1週間は30度越えが続きそうです。

 

今午後2時25分頃。外は曇り。暑い雲が空を覆っています。今すぐにも雨が降りそうです。一雨あれば気温ももっと下がるでしょうね。心地よい風も吹いてきました。扇風機くらい強い風です。書類が舞い上がります。

      

 

忘れないうちにアップしておきます。きのう目撃した一部始終です。いつも歩く分流沿いの草むらに蜘蛛の糸がありました。そこに足元から飛び上がったキチキチバッタが蜘蛛の糸に絡まってしまいました。蜘蛛は女郎雲(ジョロウグモ)です。

そしたら、いやはや早いですねえ、蜘蛛がやってきまして、

蜘蛛の糸を吐きまくります。

 

 何とか逃げようとバッタは動こうとするのですが、ジョロウグモは猶予を与えません。

 

 あっという間にぐるぐる巻きです。もう逃げられません。

 

 残酷ですが、これも自然界の掟です。

 

 見事ですね。こんなにもぐるぐる巻きにしてしまいました。完璧です。ここまできちんと仕事をするんですね。

 

 こうやって食料の確保をするのでしょうか。食料としては何日分の食料となるのか。

 

きょうも河原の散歩をしてきたのですが、きのうのこの場面、どうなっているのか?確認するのをすっかり忘れていました。もう正真正銘の喜寿過ぎの翁の面目躍如です。

 

朝日川柳から引用させていただきます。

『差しかけた傘をつぼめる黒い雨』・・・群馬県 桑原さん (8/13)

『舌の根の乾かぬうちの控訴なり』・・・広島県 山本さん   (8/14)

きのうの「かたえくぼ」もいいですね。

「  広島、長崎平和式典

        以下同文としたい

             ーーー首相省エネあいさつ  」・・・(栄・出辛子)

 

 


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暑いあついアツイ

2020-08-13 14:07:08 | 思いつくまま

(もしも今このブログをご覧になっている方にお知らせです。出来ましたらNHKFM放送をお聴きください。今年はベートーベン生誕250年ですか、いろんな企画がありますが、NHKFMの午後2時からはいろんなベートーベン特集を組んでいます。きょうは「運命を聴きまくれ」ということで、いろんな第5交響曲運命の演奏が聴かれるようですよ。今はピアノ演奏で、今終わりました。リスト編曲の運命でした。次からはオーケストラの演奏だそうです。カラヤンから行くそうです。)

 

 暑い

 暑い 

         暑い

        暑い 

 暑い

暑い 

 

今日も暑いです。室内にいても熱中症にかかるというのでご注意あれ、ご同輩。さらに或る日ある時突然なってしまうというのではなく、特に高齢者の場合、食欲不振や活動量の低下、体がだるい等の体の衰えに伴って数日かかって熱中症になることがあるようです。お互い高齢者同士、気をつけましょう。

  

きょうからがお盆の入りですか。我が家ではきのうお墓参りに行ってきました。お盆はお彼岸と違って、いっぱいお寺等を回ります。といっても我が家の場合はとっても恵まれていて、4か所のお寺等を回れば、合計9つの家のお墓に参ることができます。

きのうは混んでいることはなく、古いお寺等では十分にセミの鳴き声も聞くことができました。(今はカラヤンの第5運命を演奏中です。カラヤン53歳の時の録音とか)

 

今朝の河原の散歩のときに、いままで見たことのない決定的なシーンを見ることができました。決定的なシーンというと、きのうの日本映画専門チャンネルの映画見ましたか?塚本監督の「野火」です。私は実際に映画を見、その後塚本監督からいろんな撮影にまつわる話のほかに、日本の現状に対する恐れ不安というものも直接聞きました。

 

先の大戦での最大最悪最凶の戦闘シーン、と言っても一方的に突っ込んでいってやられまくるだけですが、そのシーンもむごたらしいですが、それ以上に逃げまくる日本の兵隊、敗残兵の悲惨極まる境遇運命、まさに餓鬼道人肉食の世界まで落ちていきます。

 

全く救いようのない映画ですが、つい75年前まではこういうことが現実にあったのだということを我々は忘れるわけにはいかないし、なんとかして次世代に引き継いでいかなければならないのですが、現実はもう無理でしょうね。私はもう半ば以上あきらめていますが、それでもこうして書くことができる以上は細々とでも書き続けていきたいと思っています。

 

先の戦争では、十分な食料弾薬をもってアメリカ軍等とほぼ対等に戦って死んだという兵隊はほんの少数であること。大半は貧弱な装備で精神論で戦わされたということ、その結果敗残兵となり、ジャングル等を逃げ回り、病死するか餓死した兵隊が多数であったことを記憶し続けないといけないと思い、先のない無駄な抵抗をしています。それと輸送手段の劣化による輸送中の水没死が多かったということも。

 

考えれば考えるほど、東条英機の責任は重いです。先陣訓の生きて虜囚の辱めを受けずという文言ですか、これによって死ななくてもよかった将兵や民間人何万何十万人が結果として殺されたか・・・・。民間人で言えば、サイパン島や沖縄でどれだけの人が自ら命を絶ったか。

 

それなのに、ああそれなのに、言い出しっぺの張本人が、陸軍大将まで上り詰めた職業軍人が、自決に失敗するなんて。そこいくと阿南陸相は割腹して、軍人としての責任をそれなりにとりました。

拳銃自殺もできないくせに、割腹なんてとてもじゃないけどできるわけがないでしょうし、本当に死ぬつもりだったのか、それさえも信用できません。挙句の果ては裁判で DEATH BY HANGING です。恥さらしもいいところです。

 

日本の戦争指導者の無責任さの象徴そのものですね。私はいまだに許すことはできません。(どんなに家庭では好々爺であっても)そんな奴を靖国神社に祭っているなんて・・・・。

 

 

いつの間にか今朝がたの決定的なシーンについて書くのを忘れてしまいました。すみませんが明日にさせていただきます。

 

 

 

 


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いやあ、きょうも暑い !

2020-08-12 16:06:24 | 思いつくまま

暑さ、夏の本格的な暑さというものはこういうものをいうのですか?暑いです。暑いのが好きな私でもさすがに暑い。正直に認めます。きょうの最高気温は34.3度です。きのうとほとんど変わらない感じとなりました。朝5時で27.3度でした。

今になってよかったな(!?)と思っているのは、去年の夏の後半我が家にもクーラーを設置したことです。

 

1階と二階とに2台設置しました。去年はとうとううちの奥様の主張に負けてしまったというか、暑い夜でも毎日アイロンをかけてくれる、汗をかきかき、汗をふきふきアイロンをかける姿に負けました。

  

それまでは絶対に我が家では自然空調で行くと頑張っていたのですがね。夜になれば外から入ってくる風は結構涼しいし、扇風機がいっぱいあれば何とかしのげるだろうと思っていたのですが、とうとう私の方が挫折してしまいました。

 

そういうわけで、目下のところ我が家ではクーラーと扇風機を併用して使っています。コロナ禍があるし、体温が上昇して、どこかで検温されて37度以上の体温があったりしたらヤバいですからね。コロナに感染している、となったらもうあからさまな差別攻撃が待っているでしょうから。いやな世の中です。

 

 

いやな世の中といえば、やっぱりなということでしょうか、厚労省は広島県や広島市に圧力をかけて「黒い雨訴訟」の地裁判決を不服として控訴することになりました。これが国の国民に対する態度です。国民救済なんかどうでもいいのです。国の考えに沿わないことが許せないわけです。

 

75年前に降った黒い雨が、強かったか弱かったかどこで線引きできるのですか、またそれによってその後の後遺症に対する影響力が異なるなんてどうやって証明できるのですか。それが科学的知見とかいうやつですか。信じられません。

 

「原稿をただ読むだけの”橋渡し”」「何時何処で何をしたやら橋渡し」「安倍総理YOUは何しに被爆地へ」とまで揶揄された独裁者はきょうこう述べているようです。

 

msnニュースで読んだ「産経新聞 2020/08/12」からです。

『 安倍晋三首相は12日、広島地裁が広島市への原爆投下に伴う「黒い雨」を浴びた原告全員を被爆者と認定するよう命じた訴訟で、広島県などが控訴したことについて「広島地裁の判決内容は、これまでの最高裁判決と異なる」と述べた。首相官邸で記者団の質問に答えた。

 首相はまた、国の援護対象区域外で黒い雨を浴びた人たちの救済策について「広島県、広島市の要望も踏まえ、厚生労働省で『黒い雨地域』の拡大も視野に入れ、検証することにした」と語った。その上で「被爆という筆舌に尽くしがたい経験をされた皆さまに対する支援策にしっかりと取り組む」と強調した。』

また出ました、口先男。「要望も踏まえ」「拡大も視野に入れ」「検証する」「しっかりと取り組む」 口先だけ、言うだけはタダですから。”いつまで” とか ”早急に” とかいう言葉はないようです。またしても、原告の被爆者が高齢で亡くなっていくことを心では望んでいるのでしょうね。

 

「被爆という筆舌に尽くしがたい経験をされた皆さま」に対する、人生の苦労された先輩方に対する尊敬の念があれば、また本当に「筆舌に尽くしがたい経験」と心から述べ、それを豊かな想像力で補うことができるようなニンゲンであれば、心底から相手の身になることができるニンゲンであれば、このような仕打ちはできないでしょう。

 

ヒロシマとナガサキの平和祈念式典に出席して、あいさつをし、その後に被爆者団体と短時間ではあれ会っているのです。その直後のこのむごい仕打ち。まさに卑怯者の、鉄面皮の、だからこそいかにも政治家らしいニンゲンの仕業としか思えません。

 

                   

 

 昨夜下水から放水したのでしょうか。排水口の下の砂地がすっかり切り取られています。ずーと見てきていると、やはり夜中に人知れず、人に知られないように?放水しているのではないかと思ってしまいますが。

 

 


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あの日から9年5か月

2020-08-11 15:28:21 | 思いつくまま

ブログを入力するためにパソコンを開くと、なぜか?最初にmsnニュースの画面が出てきます。まあそれで仕方がないので?ひととおり項目だけでも眺めて、興味を引く記事があれば開いてみることにしています。

(仙台七夕はすでに8日に終わっています。町内の七夕飾りも5日に飾り付け、8日の夕方前に取り外しました。お不動さんの境内に横に竹をセットして、その竹に吹き流し等を取り付けました。これなら少々の雨でも大丈夫です。)

いやあびっくりです。仙台はどう考えてもきのうよりも暑かったのですが、全国にはすごいところがあるものです。人間の体温、この頃は病院等へ行くと必ず体温を計られますが、大体は36.4度くらいかな。まあ問題はないです。大体それがニンゲンの普通の体温ですよね。

  

しかし、その人間の体温を上回る高い気温となったら、人間の体はどうなるのか?想像を絶する!?といっては嘘になりますが、でも40度を超える気温と聞けば、びっくらぽん、ひっくり返ります。

 

 (うちの奥さんたちが中心となって七夕飾りをつくりました。去年使ったものも大切に保管して、ちょっと趣を変えて再利用しています。思った以上にうまくできました。)

群馬県の伊勢山市ですか、きょうの最高気温が何となんとナント 40.1度 というじゃないですか!!!!対して仙台は 34.7度 です。34度台なんて可愛いものですよね。八王子市で39.3度、富山市は38.4度とのことです。 天晴としか言いようがありません。

 

そういう時はこれでも見て、ほのぼのしてください。朝方のmsnニュースで見ました。カルガモの親子です。この場所が東京のど真ん中じゃないですか。

 六本木ヒルズから毛利庭園の方に歩いて行ったそうですが、途中警察官が数人出て交通整理をしました。納得です。

  

          

 

ここからは今朝がたの河原の写真です。今朝も可愛い写真を撮ることができました。何ともいじらしいのですね。人目を気にしながら、浴びたいという気持ちと早く去らないとという気持ちのせめぎ合い、その様子が見ていると感じられるのです。今朝は分流ではなく、澱橋上流左岸での出来事です。

  

スズメだった暑いのですよねえ。水を浴びたいのですよね。いじらしく感じませんか。スズメはどちらかというと、あまりにありふれている鳥のため、何だスズメか、また来たかスズメ、とか歓迎されませんが、よくよく観察すると可愛いものですよ。もっとカラフルな羽だったらよかったのにねえ~とスズメに同情したくなります。

 

これでもまだ涼しさを感じないのであれば、最後はもうこれしかないです。その喪にズバリ、水 と 魚 です。

    

 

ああ、やはりなあ~。長州の独裁者はどこまで行っても一般普通の国民には冷たい仕打ちだけ。自分自身や身内、おべっかを言い、忖度しまくる取り巻き連中だけの権力者、ということがはっきりしました。

 

これもmsnニュースからの記事ですが、例の広島市の「黒い雨裁判」というか「黒い雨訴訟」。広島地裁は原告全面勝訴という判決を下し、それを受けて広島市も広島県も国に対して控訴を断念するように働きかけていたというのに・・・・。

 

それに、行かなくてもいいのに、迷惑な存在でしかないのに6日は広島市へ、9日は長崎市へ押しかけ、取り巻き官僚が作成したであろう原稿(ほとんど両市とも内容は変わらないというじゃないですか)を読み上げ、被爆者の団体とも話し合いを持っているのです。

 

それなのに、国は控訴しようとしています。これだけ世間の耳目を集めた裁判の行方を決めるには厚労省だけで判断できるものではないでしょう。厚労相は結論について絶対に独裁者の意向を恭しくお伺いすることでしょう。

 

まだ100%控訴するとは決まってはいないようですが、もうタイムリミットです。控訴することになればどこまでくそ野郎かという証左ですね。とても隣県の山口県出身者とは思えません。

 

 

きょうの朝日川柳から引用させていただきます。

『安倍総理YOUは何しに被爆地へ』・・・滋賀県 渥美さん

『言霊は君を悪夢に仕立て上げ』・・・京都府 森田さん (「橋渡し役」をする?している?)

 


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いやあ、朝から暑すぎます!

2020-08-10 13:57:29 | 思いつくまま

 

いやあ、何と申しましょうか、今朝からの外気の猛烈さ、いったい何でしょうか。外に出ると、ものすごく熱気を含んだもやっという空気が襲ってきます。新聞を取りに行っただけで、何じゃこの暑さは!!とつぶやいてしまいました。

          

朝5時で23.1度、7時は25.6度で、10時になると30度を超えまして30.6度、お昼には32.6度まで上がりました。午後1時は31.5度でしたが、午後2時にはもっと上がっているかもしれません。

4日から7日まで30度を超えましたが、その時の外気の様子とは明らかに異なる感じがします。暑さの度合いが違いますね。なんでも仙台の明日はもっと暑く、熱くなりそうです。

      

これだけ猛烈な暑さが続くと、今度こそ、今度こそはとついつい思ってしまいますが、果たしてどうなるでしょうか。広瀬川、鮎の釣れる川になってほしい、何としてもなってほしい、ここまでくるとなんかなりそうな気がしますが・・・・。でもなあいつも裏切られてばかりいるからなあ。

暑くなると河原にも変な人が現れるのですね。困ったものです。露出狂です。高齢者の仲間入りっをした感じの男が、まあこの頃は中州の本流の方で脱いでいるから、見つけなければなんとも無いのですが、私みたいに朝から暑いと出てくるなと知っている者としては不愉快ですね。

      

まあ露出するとは言っても上半身だけと言っていいですが、かといってできれば下半身も脱ごう、全部とまではいかなくても半分くらいは脱ぎたいとかいう感じなのが見え見えなのです。

これがまあボディビルとかで鍛えているキン肉マンならまだいいのですが、下腹が出ているのではげんなりです。まあよく解釈すれば、全身の日光浴、日ごろ太陽の日に当たらない部分を当てようとしているといえるかも。

     

そこいくと、こちらは可愛いものです。遠慮がちに、人目をはばかってやっていますから。また今朝も見ました、スズメの行水というか水浴びです。

          

 

   

最初は2羽いたのですが、1羽はすぐに上がってしまい、もう1羽が上がってはまた名残惜しそうに浴びたりしていて、可愛い仕草ですよ。

 この黒イトトンボ、しっぽがこんなにまがるなんて、びっくりです。

  

 いよいよバッタの出番か

        

 

それにしても、今年の夏のセミの世界の異変、アブラゼミが少ないこと!絶対数が少なくなっているように感じます。いつもなら一番多いセミじゃないですか、この辺では。河原の大木を見てもセミの抜け殻がほとんどありません。

 

 あっそうそう、きのうのことです。澱橋の下流の方を見ていたら、なんか白いものが見える。もしかして釣り人が中州にいるのかなと思って、望遠で覗いてみたら、シラサギでした。そんな遠くにいないで、もっと近くに来てくれればいいのに、と思いながらシャッターを切りました。

 

そして帰宅してパソコンへ写真を取り込んでみたら、びっくりポンです。何となんとナントシラサギの下にカワウが2羽もいたのです。白と黒の共演でした。仲がいいのか、この鳥たちは。

      

望遠レンズは素晴らしい!!!


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長崎原爆の日

2020-08-09 14:11:21 | 思いつくまま

  

どうしてもこの時期になると、気分的には暗くなります。心になんか重苦しいものが沈んでいるようで、気持ちは晴れません。でもまあそれでいいと思っています。すべては75年前に遡るのですが、沖縄戦が住民を巻き込んでの惨憺たる、悲惨極まる敗北となった後の、ヒロシマへの、ニンゲンを殺傷するための世界初の原爆投下、そしてソ連軍の侵略、略奪、最後はナガサキへの2度目の原爆投下。よりによってウランとプルトニウム、両方の原爆を落とすのですから。

 

   今月に入ってNHKスペシャルで「沖縄 出口無き戦場」という番組が放送されました。沖縄戦は最後の1か月でたくさんの沖縄住民が死ぬことになったのです。これも日本軍とともに行動をともしたから、当然日本軍は友軍であり住民を守ってくれるものとばかり信じていたから。

しかしながら現実はアメリカ軍の攻撃による死亡のほかに友軍による殺人(殺戮)も加わり、さらには住民同士の集団自決まで起きてしまいました。一部の住民の指導者の中には、南部に逃げるのではなくて、北部に逃げようとして逃げて助かったということもあったようです。ほんの少しだけ救われます。

 

   ついこの前は日本映画専門チャンネルですか、「沖縄スパイ戦史」という映画が放映されました。これは75年前に住民が沖縄戦で経験したことを編集したドキュメンタリー映画ですが、何とも重い映画でした。でも、生きているものとしてやはりきちんと見ておかないといけないと思い、見続けました。

沖縄みたいに小さい島では、住民の協力がないと米軍とは戦えません。しかし、そうなると日本軍の情報等も住民に伝わるわけで、日本軍としては、情報を知っている民間人に米軍に通報されたら困るわけです。

住民はなくてはならないけれど、邪魔でもあり、いざという時にはスパイとして米軍に通報されるかわからない厄介な存在(基本的に日本軍は住民を信用していなかったし、利用するだけのものという意識だったから、いとも簡単に住民を銃殺や斬殺できた)でもあり、住民には米軍につかまってもらっては困るわけです。

戦うのは軍隊、住民は足手まといということで食料を分捕ったり、ガマの外に放り出したり平気でするわけです。そして最後には笑ってしまいますが、戦いの邪魔だからと住民を自決させておいて、ガマから出しておいて、自分たちは””投降””したりしているのです。住民には投降を厳禁しておきながらです。

軍隊があるから基地が必要になる。基地があるからいざという時には攻撃されるのだと、生き残った住民の誰かが言っていましたが、まさにその通りです。いざという時には自分たちを守らないのです、国を守るのです、とかも言っていたな。

 

   そして、きょうはきのう放送されたNHKの番組を見ました。ちょうど11時からの長崎の原爆忌にかぶさってしまいましたが、「ETV特集 焼き場に立つ少年  長崎・原爆孤児の戦後」という番組です。こちらも言葉を挟むことなく、その余地がないくらい内容の濃い、静かではあるが迫力のある番組内容でした。

すでに死んでいる小さい弟をしっかりと背負って、はだしで焼き場に立つ長崎の一人の少年。この写真を撮影したのは米軍の従軍カメラマン ジョー・オダネル(83歳で亡くなっています)という人。

            

番組はこの一枚の写真から、いろいろな手法を駆使して、カラー化したり、またいろんな人に見てもらったりして、撮影された日時を割り出そうとしたり、場所を特定しようとします。ついつい引き寄せられてしまいました。日時は1945年10月15日か17日、または22日ということでした。場所も長崎本線の線路沿いのところではないかとまで迫りました。

この番組の骨子は原爆孤児の戦後です。戦災孤児は、都市の空襲により全国的に生まれています。そう書くとどうしても野坂昭如の「火垂るの墓」を思い出してしまいます。今は大津波大地震等の震災孤児も生まれています。

この少年は、背負っていた弟を荼毘に付すとそのまま後ろを振り返らずにまっすぐ去って行ったとカメラマンは言っています。この眼差し、噛んで何かをこらえている唇、直立不動の姿勢、指までまっすぐに伸びています、そしてはだし。

背負われてぐったりしている小さい子ども。何事も先入観がなければ、何とすやすやとよく眠っていることだろうと思ってもおかしくないくらいにきれいな可愛い顔をしています。それがなおのこと口に出せない悲しみを漂わせています。

 

両親を失った子どもたちは、親せきに預けられたりしたわけですが、そこで言い尽くせない苦労をしたようです。辛い辛い思いをしてきたようで、よくぞ生き抜いてくれましたとこちらがお礼を言いたくなるくらいです。

牛舎に寝泊まりさせられたとかいっていました。中でも一番辛かったのは、空腹とかではなく、すでに亡くなった両親が何かにつけ悪く言われることだったそうです。子どもの立場でどうしたらいいですか?と言われたらあなたならどう答えますか。

でも、この番組の最後に少し救いがありました。カメラマンのジョーが、亡くなる前にアメリカ人からインタビューを受けていたのです。2003年7月7日です。

Q:アメリカ人として長崎を歩いてどう思ったか?

A:(原爆は)間違いだったと思った。

Q:原爆は、アメリカ人や日本人の多くの人の命を救ったという人に対しては?

A:(原爆は)何も救わなかった。罪のない人々を殺しただけ。我々はおばあさんやおじいさん、子どもを殺した。

  

Q:無意味な虐殺だと?

A:そうだ。

  

 

                                合掌

 

 

 


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七夕もきょうまで、ジンクス通りで

2020-08-08 06:50:29 | 思いつくまま

    

今日は8月8日です。5日は仙台七夕前夜祭の花火大会(注し)、6日は広島の原爆の日で、仙台七夕の初日でもありました。でも今年はコロナ禍で、仙台七夕は中止となっています。

   

6日から8日までの三日間が七夕の期間なのですが、その三日間のうち必ず1回は雨降りとなるというジンクスがあります。きょうは8月8日、本来であれば仙台七夕の最後の日なのですが、外は午後から小雨となってきました。こんな社会でもジンクスは生きているのでしょうか。

   

ラジオのニュースによると、東日本西日本ともに全国的に猛烈な暑さだそうで、いろんなところで最高気温が35度を超えているようです。どこの国の話しか?と言いたいくらいです。今午後2時半頃ですが、もっかの最高気温と最低気温は24.6度ー22.6度となっています。午後2時の気温が23.2度です。

   

猛暑日の地域のみなさんからは、うらやましく思われるかもしれませんが、でも私としては夏というのに23度ではおかしいんじゃないの?と思わざるを得ません。24.6度が最高気温となっていますが、これは深夜も深夜の0時14分の記録です。

   

昨日は川に入らなかったので、きょうの午後に入ってみようかなと思っていたのですが、この雨と気温では無理はしないようにするつもりです。こうやってみると午後の方が天気は悪くなるようなので、これからは午前中に川に入るようにするかな・・・。

  

  

 

ちょっと前の話しになりますが、4日の朝日新聞の文化面の記事です。「寄稿」らしいですが、岡田暁生という音楽学者(こういう仕事があるのですね。)の『「第九」再び抱き合えるか」、「近代の夢はコロナに勝るか ベートーベンは問う」と見出しのついた寄稿文です。

 楽譜は、ドイツの Bärenreiter 版です。かって私が第九の合唱団に入っていた時に使った楽譜の一つです。楽譜は3冊使いました。

 

 (楽譜の上から、ソプラノパート、アルト、テノール、バスの順です。私は上から三番目のテノールパートでした。)

『いつか「コロナは去った」と世界の誰もが感じるようになる日。それを祝うコンサートとした、ベートーベンの「第九」ほどふさわしい曲はないだろう。・・・・・。しかし、今のところ、これは遠い未来の夢物語に思える。』

 

『「距離をとること」が世界的に求められる今、「第九」は最も上演が難しい音楽になってしまった。交響曲と合唱を合体させた「第九」にとって、舞台に所狭しと奏者や歌手を並べることで生まれるサウンドの「密度」こそ命だ。』

 

『しかも、ここで言う響きの密度とはただの音響効果のことではない。・・・。響きの密度は友愛理念を可聴化したものであると言っていい。』

 

『「第九」の初演は1824年。市民社会がまだ若かったころである。同様に、一般の人々に開かれたコンサートも目新しかった。・・・。コンサートという制度は、市民社会の申し子だったのだ。』

 

『オーケストラと合唱という最もホールに映える手段を駆使し、「分け隔てなく抱き合おう」と呼び掛ける「第九」は、民主主義のアイコンとなった。しかも巨大サウンドという点で、今日のロックコンサートも含む大規模イベント系音楽の原型でもあった。』

 

『「第九」が上演不可能という事態は、おのずと「近代社会のエンジン停止」という象徴的意味を帯びざるを得ないのである。』

 

『その感動は、コロナが露呈させた「近代社会の破綻」という現実を忘れさせかねない危険をはらむ。「力をもらった!」と一時的に鼓舞されるだけならば、きたるべき「第九」の再演は、単なる音楽イベントとして消費されて終わってしまう。

『ベートーベンは今、250年の時を経て私達に問う。これまで「第九」で歌い上げてきた理想社会を、きみたちは嘘だったと言い切れるのか。それとも君たちは、この「第九」の理念を真に自分たちのものにするため、再び本気で立ち上がるつもりなのか、と。』

Seid  umschlungen,  Millionen !  Diesen  Kuβ  der  ganzen  Welt !

抱き合え、幾百万の人々よ! このくちづけを全世界に

Brüder !  über'm  Sternenzelt  muβ  ein  lieber  Vater  wohnen.

兄弟よ! 星空の上に 一人の愛する父(なる神)が住んでいるにちがいない

595小節から626小節の部分です。

この部分は私が一番好きなところです。男声合唱から始まり、なんとも厳かな雰囲気の中で始まります。その後603小節から女声合唱が加わりますが、この部分だけは男性パートが中心となって力強く歌い上げますね。

でも4つのパートの出だしが微妙に異なっていて、自分のパートをしっかりと守って巻き込まれないように歌い続けるのが結構難しかったなあ。それはここだけの話しではないですが。

でも、改めて思います。ベートーベンはよくもまあこの第九交響曲をつくったものだ、第4楽章の合唱まで入れて、とつくづくしみじみ思います。ただただすごいとしか言いようがないです。こういう努力の大天才が250年前にいたのですから。

 

 

 

 


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仙台七夕なのですが、

2020-08-07 14:47:48 | 思いつくまま

(広瀬川は鮎が釣れませんので(私だけかもしれませんが)、せめてということで5日に見つけた鮎のハミアトをこれでもかとアップします。)

8月5日は七夕前夜祭としての花火大会が開催され、よく6日から8日までの三日間は仙台七夕が、市内の中心部を中心に華やかなうちにも厳かにかつ平和への祈りも含めて開催されるはずでしたが、それもコロナ禍で叶いませんでした。

 

でもあとから分かったのですが、5日の夜に仙台商工会議所はほんの申し訳程度に花火を打ち上げたようです。忘れられないようにとの願いからでしょうか。我が家でも花火の音は聞こえてきたのですが、まさか商工会議所の花火とは分かりませんでした。

 

またどこかの団体が、コロナ禍に負けないぞというメッセージを打ち上げているのかなとその時は思って音だけを聞いていました。花火の音からして、2階からぜひとも見てみようという気にはなりませんでした。あまりにもさみしく、みすぼらしく感じてしまいました。

 

でも考えてみれば、私のように古希を過ぎた者にとってはそれでちょうどいいのかもしれません。人生の終焉を迎えるのに相応しい花火であり、花火の音なのかもしれませんね。それがいままで生きてきたということでしょうし、年相応にそういう音を聞いたら、わが身に置き換えてしみじみと感じ取るという行為が必要なのかもしれません。それが歳を、年齢を受け入れるということなのかもしれません。

 

今それとなく暦を見たら、きょう7日はもう””立秋””なのですね。立秋という文字を見たら、声を聞いたら、一気に秋がやってくるという気持ちになってしまいますね。

 

でも子どもたちにとっては、きょうは夏休み直前の最後の授業であり、あしたから遅くなった””夏休み””なのです。あすから夏休みということもあって、、今朝も交差点の見守り活動に自主参加しました。

 

とくにうれしいというようなことは見られませんでしたが、こちらから「明日からようやく夏休みだね」と語りかけると、「でも10日くらいしかないんです」、という返事。そりゃそうだよなあ。平年ならもう夏休みに入って2週間以上も経っているのですから。

 

新1年生にとっては、初めての夏休みが変則なものになってしまったわけですが、とくに今年が変だとも思わないでしょうね、初めての経験ですから。

 

初めての一年生と言えば、大学生も、大学1年生も可哀そうですね。入試に合格しても、必要な高額な費用はすでに支払っているのに、学校にまだ一回も行けていないというのですから。5日の新聞に大学生の声として書いてありました。

 

「小中高が良くて(登校できているということ)、ディズニーが良くて、夜の店が良くて、大学はダメなんですか」  確かに全国から学生は集まってくるから、コロナの対応をきちんとするのは大変でしょう。でもだらかといってできないということはないと思いますが。絶対数が多いことと、やる気の問題かなあと思うのですが。

 (以下は今朝の撮影です)

もっと大学生は怒るべきです。立ち上がるべきです。せめてアメリカみたいに授業料の減免を要求すべきです。悔しくないのですか!?何とかならないのかと思わないのですか。何とかしようと思わないのですか。(昔のことを書きたくなりますが、時代が違いすぎるので止めておきますが、それにしても・・・と思ってしまいます。)

 

家の地域には大学がすぐそばにあるため、学生用のアパートがいっぱいありますが、入居すると言っておきながらまだ1回も仙台に来ていない学生が複数人います。大学に入っても、コロナのためにまだ1回も大学のキャンパスに踏み入れていないなんて、想像外としか言いようがないです。気の毒としかいいようがないです。

 

大学と言えば、日大のスポーツクラブのことで朝日新聞が大きく取りあげていましたね。クラブで雇っているコーチの言動だけではない、暴力行為もひどいものです。以前はアメフト部の問題がありましたが、今回はどこのクラブでしたっけ。

 

こう書きながら思い出そうとしているのですが、ラグビー部のような気がするのですが、レスリング部?今ネットで調べたらすぐわかりました。やはり日大ラグビー部です。名前まで出ていました、伊藤武(たける)元ヘッドコーチで、顔写真まで出ていました。

 

なんでも部員個人だけでなく、部員の家族までも侮辱し、家族全員シャブ付けにしてやるとまで公言したり、どう見てもまともなニンゲンのやること、いうことじゃないとおもうのですが部員からの反乱は起きなかったようです。

 

坊主頭に爪楊枝を何本も刺されて、痛いだろうに取ることは許されず、帰宅する前に寄ったコンビニでも楊枝が刺さったままだったといいますから、もうあきれ果ててしまいます。それでいて、ラグビー部の監督や大学のスポーツ関係者は穏便に取り計らったようです。大学の体質なのでしょうね。アメフト部のことがあって、あれだけ騒がれたというのに・・・・。

 

むかしむかし、1960年代後半の出来事、最初は東京を中心に起きた学生の反乱、その後の全共闘運動の発端は、一つは日大の古田体制の専制主義独裁主義隠蔽主義が原因で、それまでは周りからポン大と蔑まれていた日大が立ち上がったこと、秋田何某という学生が中心となり、最初は芸術学部なんかが中心となって日大全共闘を結成して、古田専制体制打倒を掲げて戦ったわけです。

 

もう一つは東大です。医学部のあまりにも権威主義的な、いい加減な管理運営で学生の反発を買い、闘争の火ぶたが切られ、バリケードは全学部に広がり、山本何某という医学部の学生(修士か博士課程だったかも)が東大全共闘を結成し、全共闘運動は日本中に広まっていきました。燎原の火そのものだったなあ。

 

またまた話しが日大のことから外れてきました。

長くなりました。きょうはこの辺で。そうそう、仙台は今日も最高気温は30度を超えました。30.4度が最高のようです。昼前の11時23分の記録です。これで30度越えは4日間連続となりました。いつまで続くのか・・・・。

そうそうもうひとつ、黒い雨訴訟。広島県や市は控訴を断念するように国に働きかけているのに、きのうの長州の独裁者はきちんと向き合わず(まいどまいどのことですが、いやすべてがそうだといってもいいかも)、下等ならぬ加藤何某厚労省も科学的知見ではないということで、県や市と控訴を協議するとか・・・・。何が科学的知見ですが、くろいあめに強いも弱いもありますか、地域で区別できる代物ですか、それが科学的知見なのですか???


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広島原爆の日

2020-08-06 17:16:03 | 思いつくまま

        

      「序」

               峠 三吉

ちちをかえせ ははをかえせ

としよりをかえせ

こどもをかえせ

 

わたしをかえせ わたしにつながる

にんげんをかえせ

 

にんげんの にんげんのよのあるかぎり

くずれぬへいわを

へいわをかえせ

     「水ヲ下サイ」

              原 民喜

水ヲ下サイ

アア 水ヲ下サイ

ノマシテ下サイ

死ンダハウガ マシデ

死ンダハウガ

アア

タスケテ タスケテ

水ヲ

水ヲ

ドウカ

ドナタカ 

  オーオーオーオー

  オーオーオーオー

 

天ガ裂ケ

街ガ無クナリ

川ガ

ナガレテヰル

  オーオーオーオー

  オーオーオーオー

 

夜ガクル

夜ガクル

ヒカラビタ眼ニ

タダレタ唇ニ

ヒリヒリ灼ケテ

フラフラノ

コノ メチヤクチアヤノ

顔ノ

ノンゲンノウメキ

ニンゲンノ

  

      「原爆」

                山代 鈴子(中学二年)

私は七つ、妹は三つ、

そしたお父さんは

北支のどこかで

戦争をしているということで、

ずいぶん 前からたよりがなかった。

 

母は

あの日

きんろうほうしで

町に きょうせいたちのきのあとしまつに

出ていた。

 

私は、

家の近くの会館で、皆んなと勉強していた。

 

午前八時十五分

その時

原爆はうつくしいひかりにみちて

かがやきにあふれて

おちてきた。

 

窓ガラスがやぶれて

床にちらばっているなかを

私は家にかけて帰った

なにかしらないが

おそろしいものにおそおわれて

たまらなく母のふところが

こいしかったからだとおぼえている

 

家では

姉と妹が

へしまがった天井の下で

ほこりだらけのたたみの上にだきあって

すわっていた

 

それから二時間

全身が焼けただれて

息もたえだえになって

母が帰ってきた。

父がいなくて一家の柱の

たった一人の私達の

母が、

 

姉は

毎日 どくだみをせんじて 母にのませ

うじのわいている

指のまたのかさぶたをうがしては、

おしろい粉をふった。

 

そして それから七年。

いろんなことがあったけれど

私は十三、妹は九つ、

父は戦争で死んでしまって帰らなかったが、

母は

今日も。あの原爆で不自由な体で

くわをふるっている。

 

原爆はいやだ

それにもまして

父をころし

原爆をおとした

戦争はいやだ。

 

                     (合掌)

掲載させていただいた詩三篇は、「第二楽章 ヒロシマの風」(吉永小百合編・男鹿和雄画 角川文庫 平成十二年発行)からです。


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きょうもきのうから、

2020-08-05 16:09:36 | 広瀬川

暑いです。きのう今日と仙台は最高気温が30度を超えました。きのうが30.4度で、きょうは32.2度ですか。午前10時42分の記録だそうです。明日も明後日も暑いようで、いよいよ仙台にも夏がやってきた!!!ということになりますか。

きのう朝の広瀬川の水温は確か22度くらいありました。午後から広瀬川に入ったのですが、その時は24度だったかな。このくらい上がってくれれば冷たくはないです。でも昔々、今年氾濫した最上川の上流域で鮎釣りをした時の水温はすごかった!30度を超えていました。だから昼食は水の中に椅子を入れてそのうえでの食事だったかな。長いこと同じことをやっているといろんなことを経験しますね。

そうそう1日のことですが、書いておかないともう書く機会がなくなりそうなので書かせてもらいます。その前に、きのうの朝の散歩のときシマヘビを見つけました。すぐ逃げていき、写真は撮れませんでした。ここに逃げこんだなと思ったところを探したのですが見つかりません。すぐそばなのに、なんか不思議です。土の中にもぐったのかなとも思います。でないといなくなった理由付けができません。

  

まあそんなことはどうでもいいのですが、1日の散歩の帰り道下の堤防のコンクリートとアスファルトの境目に蛇がいたのです。シマヘビでしょう。これは明らかに日向ぼっこだと思います。

  

長く伸びて動きません。きちんと写真を撮らせてくれました。それは感謝です。目をよく見ると可愛い眼をしています。これくらいの蛇ならつかまえられるかなと思いますが、そこは我慢です。

              

だからこのところ3回蛇の姿を見ることができたということになります。うれしいですね。さいしょがアオダイショウか、あとの2回はシマヘビと思います。

  

 

昨日午後から広瀬川に入りました。2時15分から4時までの間ですか。場所は西道路の上流の深瀬とさらに上流域の牛越橋下流の急瀬から荒瀬です。橋の下流には3人の友釣り師がいました。うれしくなりますね。

① 

② 

 ③ 

場所は上の写真のような場所に入りました。竿を出しました。①のところで、これもまた、おとり鮎を少しだけ下らせようと竿を立てておとり鮎を浮かせたところ、その一連の動きに野鮎は反応したのでしょうね、掛かってしまいました。

しかし、今回もきちんと心の準備ができる前に掛かってしまったために、慌てて竿を立て左岸に寄せるもばれてしまいました。掛かりが浅かったのでしょうが、残念です。それで次は ② です。

ここではちゃんと竿を寝かせている時に掛かりましたので、十分にためて左岸に寄せて引き抜きました。しかし、そうなんです、慎重になりすぎたのか、飛んできた2匹のアユは2匹ともタモの左側へ大きく外れました。そして上流にポチャン。

あちゃあ~、バラしてしまったかとがっくりきていたら、下流に逃げているアユは2匹のようなのです。改めてきちんと抜いてタモに収めました。鮎を掛けていないから、引き抜きも、そのタイミングも下手のままなのでしょうね。情けない。

 

そしてさらに③の草木がはみ出している難しいところです。右岸のヘチもヘチです。でもなんとかおとり鮎が入って安定して泳いでくれていたら、グググッと確かなあたりが伝わってきました。来たあ~、よし頂きだと!喜んだのですが、それもつかの間ためが足りなかったのか、水中ばれでした。

30分くらいで3回も掛かったのに、取り込みはたったの1匹のみと言う惨憺たる結果でした。ここで1時間ねばりましたが、掛かりませんでしたので、上流へ向かいました。

 

    

 

しかし全く掛かりません。掛かる気さえしませんでした。おまけに前向きに転んで左足の弁慶の泣き所を強打してしまいました。痛かった!!!

上流の様子です。

     

 友釣り師が見えます。いつもならこの辺は格好の鮎釣り場所なんですがね。鮎釣り銀座と言ってもいいかも。今年は鮎がどこにいるのか?なかなか出てきてくれません。中型の鮎でいいから、掛かってほしいですねえ。まずは鮎釣りの楽しみを実感したいものです。

 

 帰りは前のところまでやや左側を歩いての川見、川の石見、苔見をしました。結構な水量がありました。くわしくはあしたに。すみません。

きょうも東北楽天、勝ってくれないかなあ。先発は涌井ですから、いい投球をしてくれるのではないかと思うのですがね。


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昨日午後の広瀬川

2020-08-04 20:22:11 | 広瀬川

今朝の河原の散歩のとき、ツクツク法師の鳴き声尾を聞きました。きのうの午後は何とカナカナセミというかヒグラシの鳴き声を聞いています。これでミンミンゼミ、アブラゼミ。ツクツク、ヒグラシと揃ったのですが、ほかの地域は知りませんが、この周辺ではなぜかアブラゼミが元気がないです。というか絶対数が少ないように感じます。

      

いつもならセミの鳴き声と言えば断然アブラゼミでした。蒸し蒸しする暑さの夏にふさわしいというか、さらに蒸し暑くしてくれるアブラゼミの鳴き声ですが、なんか今年はミンミンゼミにトップを譲っている感じです。地面下から無事這い上がってくることができなかったのでしょうか。なんかさみしいです。みなさんそう感じませんか。まあアブラゼミの勢力が弱くなったということもありますが、全体にセミの声が聞かれない感じです。

 

きのうの午後いたたまれずに?広瀬川に入りました。鮎釣りのためです。掛かってもせいぜい1匹くらいだろうとは思いつつも、もしかして、もしかするかもという甘い考えを捨て去ることができません。本当に鮎釣りを通して、ニンゲンの愚かさみたいなものをしみじみと感じるわけです。

午後2時50分から4時半頃まで、広瀬川は美術館下の岩盤底の深い急瀬から平瀬で竿を出しました。

 

なかなか掛からなかったのですが、我慢すると少しはいいことがあるのかも。3時25分頃ですか、ようやく当たりが伝わってきました、と言いたいところなのですが、その時実際は下流へ移動するために足場を確かめながら下流域を見ていたのです。

 

そしたら、なんか立てていた竿の下の目印の動きがおかしいのに気がつき、えっもしかしたら掛かっている?ということで慎重に竿を立てました。そしたら一気に下流へ走ろうとします。こっちはニンゲンです。鮎ごときに負けていられません。必死に耐えますが、のされ気味で、何とか左岸へもっていこうとしてもさっぱり敵は浮いてきません。おとり鮎も見えないまま我慢比べで、これはもしかしてニゴイかな、またはサクラマスかなと思いました。

何とか下りながら左岸へ、浅いところへ持ってくることができましたが、それでも浮いてきません。顔を見せません。こうなりゃなんでもいいや引き抜いてやると渾身の力を込めて竿を上へ突き上げます。そしたらもう立派な背掛かりの大きな鮎でした。水面ぎりぎりに飛んできましたが、無事キャッチしました。

 

 (お断り:4枚の写真はすべて同じ鮎たちです。今のアユはもうとっても希少価値があるもので、しつこくアップさせていただきました。)

竿はシマノの輝石90 H2,75なのでそんなに柔らかな竿ではないのですがね。水中糸はナイロンの0.3号です。

 

鮎が掛かったら必ず写真を撮るようにしていますので、そんなことをしていたら水中糸とハナカン周りが縮れ、くちゃくちゃに。それで縮れた水中糸の方を切り、八の字結びでわっかを作り、ハナカン周り仕掛けにセットしました。後の祭りですが、これが結果的に良くなかったのかもしれません。

 

その後も粘り、時に3時45分頃か、急瀬の右岸よりのところで強烈ではない、ゴツン、ガツンというこごもった感じのあたりが伝わってきました。よし来た!2匹目だ!やったぞ!と喜びながら竿を立てて、例によって左岸側へ誘導しようとしたのですが、敵もさるもの、頭がよかったのか一気に下流へ走りました。本当にあれよあれよと言うまでした。

 

でも水中糸はナイロンの0.3号だからそう簡単には切れないだろうと思っていたのですが、一直線に下流に走られ、竿ものされ、竿と糸が一直線に近くなってしまいました。そうなるともうこちらに勝ち目はないですね。あとは糸が切れるだけです。切れました。あっという間でした。何もなす間もなく逃げられてしまったという感じです。敵ながら天晴です。折角掛かったのですが、あえなく”親子丼ぶり”でした。掛かり鮎が極めて少ないというのに、親子丼ぶりでは弱り目に祟り目ですね。

 

  (ここもダメでした。)

その後は当然何もかもうまくいきません。それでおしまいです。でも釣りではないですが、面白いこともありました。竿を持つ右手親指に、どこからともなくやってきたオニヤンマが止まりました。しかもちょっとだけではなく、数十秒は止まっていました。左手ならカメラを取り出して撮影できたかもしれないのですが、右手だったので無理でした。オニヤンマと言っても、ちょっと小さかったな。まだ少年くらいかも。

それがひとつ。もう一つは崖の方からクロアゲハが一直線に私に向って飛んできました。このままいくとぶつかると思った手前で曲がって行ったのでぶつかりませんでしたが、大きな蝶がこんなにも間近に一直線に向かってくるなんて初めてでした。

いろんなことが起こるものです。

(毎度毎度の景色の写真を。定点観測のつもり)

          

 

          

 

          

 


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きのう梅雨明け、

2020-08-03 20:38:31 | 思いつくまま

 

仙台は、というか南東北はきのう2日に梅雨明けしたとみられるということだったのですね。きょうの午前中に知りました。まあ何にしろ7月中の梅雨明けとはならなかったということです。気分的には梅雨が明けたといわれないと夏らしい夏とは言えないのは確かです。気持ちの問題ですか。

       

きょうの最高気温は昼直前に記録した28.3度です。きのうより約1度高い。あしたあさっての最高気温は30度を超えるようです。梅雨明け宣言がなされて、気温も遠慮気兼ねなく上がり始めるのでしょうか。いよいよというかようやく夏本番を迎えることとなったようです。

今年はまだ子どもたちは夏休みには入っていません。7日金曜日まで授業があります。まあそうはいっても、先週はずーと給食ありの午後1時30分完全下校となっていました。そして今週は11時15分完全下校で、かつ個人面談が予定されています。

            

今朝も見守り活動に参加したのですが、心なしか子どもたちも嬉しいように感じたのですが、私の一方的な感じだったのかもしれません。まあ今週の金曜日が終われば完全に夏休みとなります。でもなんか今朝はいつもよりも暑く感じたのはどういうことでしょうか。

そうそう今朝がたの河原も久しぶりに賑やかでした。セミの鳴き声が聞かれ始めたということもありますが、今朝は本当にお久しぶりにカジカガエルの鳴き声を聞くことができました。水がなければ生活できないのに、あの大増水のときはどこに逃げているのでしょうか。生き残るだけでも大したものです。

      

広瀬川は水量は最高です。水は澄み、川底はとってもきれいです。川底の石だけではなく、岩盤も滑りません。いつもの場所の左岸ヘチを入念にみていったら、ありました、苔のついた石が。それも近くに二つも。当然鮎のハミアト付きです。

どういうことなのでしょうね。まあ浅いから苔がつきやすいとは言えますが、ほかのところはまったく苔がついていないのに、ある部分だけ付着している。しかも新しいハミアトが陸ぎりぎりの石についている。

         

ここまで鮎が食べに来るということでしょうか、そういうことでしょうね。でもここまで食べに来るのはかなり勇気が必要かと思いますが。あくまでもニンゲンの、それも私の感覚ですが。

 

 斜めのギザギザは靴底の模様ではないですか?ニンゲンの靴に踏まれて石の苔に跡がついたのでしょう。

         

下の写真の中央の左端の少し湾曲しているところにあった石です。

 

 成長すると大きくなるショーリョーバッタを見つけました。羽根がまだです。

           

ちょっと気になったカモもいました。口に何かが付着しているように見えるのですが。たまたまなのか、なにか拙いものを飲みこもうとしたのか、なにごともなければいいですが。

      

梅雨明けの暑い時にぴったりのシーンがありますのでご覧ください。おとといの撮影ですが。

                  

                 

          

どうですか。場所は分流の上の方の下水の放水口の下のたまった砂です。この前の大増水でまた土砂がいっぱいたまったところです。ここに本当は3羽の雀がいたのです。3羽とも砂浴びを楽しんでいましたが、私が行くと2羽は飛び立ってしまいました。

しかし、この1羽のみが心残りがあったのでしょう、いつまでもいつまでも砂と戯れていました。おかげで面白い写真が撮れました。水浴びは過去に2回くらいは撮っていますが、砂浴びは初めてかともいます。可愛いものです。

最初に「暑い時にぴったりの」と書きましたが、水浴びとは異なり、砂浴びは暑いからするのか、体がかゆいからするのか、体は冷たいが砂は暖かくなっているから浴びているのか、単なるリフレッシュ?、でも3羽が砂浴びをしていました。「暑い時」よりは「梅雨明けに」ぴったりと書けばよかったのかも・・・・。

 

 

 

 


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もう少しの辛抱です!

2020-08-02 13:49:43 | 思いつくまま

今日も広瀬川はとってもいい感じです。いい川相をしています。今朝方澱橋の上流にガラガケの人が一人入っていました。牛越橋の下流には、遠目ですが、4人くらいの人の姿が車越しに見えました。

 

でも、きょうはまだ早いです。みなさんを川に入らせようとしないためにこんなことを言っているのではないです。今朝もそうですが、川底がきれいすぎます。どこを歩いても滑りそうにありません。

 

水も冷たいですが、川底の石にまだほとんどまったく苔はついていません。いま掛かったとしても先月私が掛けたような白い細い鮎、追星のない鮎でしょう。いかにも真夏の元気いっぱいの鮎らしい鮎になるにはもう少しかかりそうです。

 

 (トランペットの練習です。)

あしたはいってみたくなりますが、まだちょっと早いだろうなあ。明後日か明々後日なら、このままの天気が続くのであれば、お待たせいたしました!どうぞ川にお入りください!心行くまで鮎と戯れてください!と言えるのではないかと思います。

  

思うのですが、きのう気がつきました。きのうから8月です、当たり前ですが。ということは広瀬川は投網漁が解禁ということです。そうなのです、下流域から牛越橋までは7月いっぱいは投網禁止なのです。でも投網禁止はもう終わってしまったのです。

  

投網グループがいつ川に入ってくるのか、たぶん朝早くでしょうね、あまり目立たないうちに投網を打(ぶ)ってやろうと普通なら思うでしょう。竿釣りの人が多くなったときに、ところにやってきて投網を打つというのはそれなりに勇気のいることではないかと思います。

でも3密やソーシャルディスタンスを守ればもう投網漁はOKなのです。竿釣りのみなさんは、そのことを重々頭に入れておいてくださいませませ。

今年の我が家はイチジクが豊作のようでした。大きなイチジクがいっぱい目に入っていまして、この分ではおいしい花イチジクが食べられるなあと楽しみにていたのですが、まだ食べられていません。というか正確には私よりも先に食べるものがいるのです。

 

何だともいますか? ハクビシン?そうです、家族もそう思っていましたが、この前たまたま目撃しました、犯人は盗人はカラスだったのです。カラスがイチジクの実を食べる様子は結構迫力があるものです。音もすごいし。

 

それでうちの奥様はカラスの食べられるよりはと、早めに収穫して、つまり少々固いうちにとってしまっています。それで1回目のイチジクの甘露煮をつくりました。佐藤付けにすれば甘くはなるのですが、やはり熟した生のイチジクを食べたい!生食したい!ので、今朝方奥様がとっておいたイチジクを召し上がってみました。

 

             

うーんはやり早い、甘くない、ほとんど味がない、熟したイチジクはこんなものじゃないと思うと情けなくなりますね。今年は生食用のイチジクは無理で、甘露煮用のイチジクのみということになるかもしれません。それでもありがたいことですがね。

 

去年はカナブンの猛襲撃を受けて、イチジクの枝はかなり打撃を受けましたが、それでもそこそこ実ってくれています。ありがたいことです。今年はカミキリムシを2匹捕まえています。今年はカミキリムシが多くなるのかもしれません。

アホノマスク、さすがの長州の独裁者ももう限界ですか?!ここにきてアホノマスクをやめたようです。もう自分でもあほらしくて耐えきれない、やっていられないと思ったのでしょうね。周りに誰も支援者がいませんから。

あれだけ忖度官僚、忖度大臣が多いのに、それでも”マスク”については追従する輩はいなかった。そんなマスクを8000万枚も追加発注して介護施設等に配ろうとしていたのですから、国民を愚弄するにもほどがある。

           

それにしても、あのアホノマスク、仕様を何とかしようと言う、またする人材がいなかったのでしょうかね。「雲霞のごとく」いるはずの人材も実態はそんなものなのでしょう。所詮は裸の王様でしょうから。なんでもこの頃は菅官房長官ではなくて実質的な菅内閣総理大臣の菅のようですね。周辺はそんな対応をしているそうですね。(msnニュース)

給食マスクともお別れのようです。

給食というと、今朝の新聞の「Reライフ」は給食を特集していました。アンケートに836人が回答したそうです。給食は好きでしたか?はい=506人、いいえ=283人でした。61%の人が好きだったと答えています。

 

心に残っているメニューとしては;鯨カツ・鯨の竜田揚げ、こっぺぱん、揚げパン、ソフト麺、カレーライス、フルーツポンチ・冷凍ミカン、が上がっています。

 

私にも小学校時代があって、昭和29年に一年生となりました。周りはガキばかり、最初は10数クラスもありましたし、講堂(体育館ではないです)も仕切って使っていました。そのことを書くとまた長くなるので、今回は給食だけに絞って思い出したことを書いていこうかなと思っています。

 

給食はいつから出てきたのか、正確には思い出せませんが、当時は単独調理校方式ですから、温かい給食を食べられたのは覚えています。特に何がうまかったとかまずかったとかは、食べ物自体ではなかったようです。食べられるだけで幸せだったのかもしれません。

 

家では麦飯でしたから、学校でコッペパンを食べるのはうまかったのかもしれません。でも高学年には食パンになりましたね。給食の飲み物は確かに後半は牛乳パックもあったように記憶しますが、それよりもなによりもミルクというか”脱脂粉乳”が一番強烈な思い出として残っています。

 

当時の食器は軽い金属製(アルミ?)で、鉄のフォークもついていました。なぜ覚えているか?そのフォークを使って、平べったい金属の皿に傷をつけたりしていたからです。いわば温泉マークのようにカーブをつけていました。あとで叱られました、男の横山先生です。

   

小学校の最初の給食の主食は、うどんだったように記憶しています。とろみのついた何かの具の入っているうどんだったと思うなあ~。アンケートのように鯨は確かによく出てきたように感じますし、自宅でもよく食べさせられました。

 

貧乏人にはちょうどいいおかずだったのですよ。鯨の肉にも上中下があったのでしょう、我が家で食べるクジラの肉は筋がいっぱい入っていて口では食いちぎれなかったです、はい。でも当時はクジラの肉は貴重な蛋白源だったのですよね。我が家では麦飯と鯨の肉が主食?肉は少なく魚が主体だったのは確かです。川魚もよく食べましたし。オイカワなんてフライにしたりしてよく食べました。(大きくなって食べた鯨の尾肉、これは美味かった!!)

  

この前小学校での話し合いのとき、給食1回分の給食費は267円だったかな、22日とするとっには6000円未満ですか。私が小学校2年のときの給食費は月に280円だったかなあ。なぜ覚えているか?それは給食費を使い込んでしまったからです。

何に使ったか?我々が名付けていたのは”ぱった”、こと標準語では”めんこ”でしょうか、そのぱったを買うためでした。どこで買ったかも覚えています。もちろん今はとっくにその店はなくなっていますが、むかしの一銭店屋みたいな店です。親と先生からは強く叱られました。

ところで、学校というと、まだ小学校の先生の名前が言えます。長谷百合先生、藤原(てい?)先生、佐々木恵美子先生、横山文雄先生、高野栄先生(5年と6年)。男が横山、高野の両名です。高野先生は陸軍か海軍のパイロットだったようです。

なかでも一番好きだった先生は3年のときの佐々木先生ですね。すらりと背も高く、きれいだったなあ、パーマをかけ左右に分けていたのではなかったか? 卒業後友だちと近かったこともあり、佐々木先生のうちに遊びに行ったことがありました。まだご健在、生きているのであれば、会いたいですね。


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