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廿五日 昨日 平野殿へ高山秋蔵参り居候處 奥方ハ台子
ニ被居候得とも 気付不被申躰被居候 平野殿へ
ハ大木織部方被相見 隠宅ニ而咄被居候間 小子
参候事申入候處 御用ニ而候ハヽ表へ被罷出可
申 左も無之候ハヽ此方へ参候様被申候處 其内
ニ小子者引取候間 今日ハ挨拶へ参り方可宜申
候ニ付 今夕断ニ参り 昨夕ハ酔躰ニ而不都合ニ
可被思召候段申向候處 酔躰とも不被存候 夫ニ断
と申候者 兼而之庄右衛門とハ不被存候との事
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ニ付 頓而逢被申ニ付 右之
段を申向候處 少しも左様不被存候 いつ帰候哉
迚ニ而 今少し早く引留可申候物をと残念ニ被存
候段噂ニ而一笑被致候事
廿六日
廿七日 今日ゟ寒入 所々廻勤
今夕平野殿へ時候見舞参り候處 逢被申 近日ニ
岩崎・入江・永屋同道咄ニ参り候様噂之事
廿八日
廿九日 今夕片山八郎兵衛ゟ猟之鴈振舞ニ而 同役中寄 片山八郎兵衛振舞
300 八郎助(後八郎兵衛)文久元年二月~慶応元年十月 八代郡郡代
内参る事
十二月朔日
二日
三日
四日
五日 今夕高橋弥平ゟ時習館先生連案内ニ而 此方へ
も案内いたし候ニ付小子も参る事
一彦山座主 長州江一味いたし 浮浪人共集候御不 於小倉、彦山座主逮捕の風聞
審ニ付 小倉公ゟ被召捕候段風聞ニ付 南関ゟ外
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聞を出候様 荒木甚四郎方ゟ演達ニ付 今日直
早打難関江相達候事
六日
七日 今日日田ゟ早打着 同所百姓共御代官江不伏之 天領日田にて百姓強訴
条有之 強訴いたし弐百人斗り豆田町ニ相集り 参考サイト「まちあるきの考古学・日田」
其外一揆起り可申哉心遣ニ有之段申来 擁援を この後、肥後人にて旗本の窪田治部右衛門が代官となる。
乞来候由なり
右二付 今日荒木氏ゟ同役中咄合之上 奥江も申
入 其上に而 尊聴をも可奉伺 其上に而同役中
へも咄合可申候との事
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今日八ツ過 荒木氏ゟ小子を被呼立 被申聞候ニ
者 日田百姓共騒立候儀ニ付 噂之趣夫々咄合候
處 此方人数者 浪人躰之者共御陳屋を妨候御
防禦として日差越置候 此前阿蘇・小国・久住在御家人之中
五十人梅田・飯田引廻被差越置候事間、御代官御政事苛酷ニ而
一揆起り候 相手に成訳ハ無之候得とも 若御陳
屋へ乱防いたし候ハヽ 下として上を犯候者を
見逃ニいたし置候訳者無之候 乍併左様ニ成行
候而も不相成候間 若百姓共御陳屋江押懸候埒
ニ至候ハヽ 此方ゟ差留 庄屋共へも精々承り糺
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尤之訴訟ニ而候ハヽ 御代官様へ諫言いたし候
ハヽ 御聞入ニも可相成 右ニ付同役之内一人御
惣庄屋之内両人斗り 急々可被差立候段噂ニ相
成候事
右之通ニ付 翌々日 村上善九郎江日田表江御 善左衛門(善九郎)二百石、 文久元年三月頃~ 八代郡代
用有之 容易澄次第致出立候様御達ニ相成 御
惣庄屋之内 光永四兵衛 三村傅之助両へも同
様被仰付 村上者 大津迄踏出候處 日田ゟ早打
着 百姓共引取候由ニ付 村上共いつれも引返
候様との御呼返ニ而引取候事
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一御触達
今度於関東 鎖湊及談判候旨言上有之候間 攘夷
之儀総而得 幕府指揮 軽挙暴発輩無之候様 諸
藩家来末々迄可被示聞候事
十日
右之通 御所より被 仰出候間 諸藩末々迄 御
主意之趣厚相心得候様 厳敷可被申付候
右之趣 万石以上以下之面々江 不洩様早々可被
相触候
十日
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右水野和泉守様被成御渡候御書附写
駄御御目附衆ゟ被差廻候
十二月七日御達
八日
九日
十日
十一日 大濱町 一昨九日之夜九ッ前ゟ火起り 竈数三十 玉名郡大濱町火災
一軒焼失ニ及候處 海辺之事ニ付 今日ゟ火事跡 竈数(かまど数)=所帯数
見分出在之事
今日京泊り新井樋出来見分いたし候處 堅固ニ 京泊=横嶋村京泊
而 御先代之御普請古井樋ニ少しもおとり不申
候大石等ニ而築立候事 夫ゟ大浜町火事跡見
分 暮ニ及小田会所泊