東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

柳井市 新庄の史跡巡りウォーキングの下見(1/3)

2017年06月09日 | 歴史探訪他ウォーキング

 6月の史跡巡りウォーキングは柳井市の新庄です。柳井市をウォーキングしたのは3月の伊保庄ウォーキング以来です。朝10時に新庄のMaxvaluに3人が集合しました。午後からは晴れるとのことで、私はバイクで新庄に向かいました。

 集合した新庄Maxvalu  ご住職がおられない正念寺  佐藤継信・忠信供養塔 
  

 新庄Maxvaluを出ると、最初に緩い坂を登って正念寺に向かいました。ご住職がおられないとのことで、鍵がかかっていました。このお寺には、近くで発掘された多々野古墳の副葬品が保管されているそうです。一度見てみたいものです。続いて、すぐ隣にある佐藤継信・忠信供養塔を見学しました。両者は源頼朝に滅ぼされた平泉藤原氏の家臣だったそうです。源平合戦時に源義経に仕え活躍したとのこと。しかし、継信は義経の身代わりとして、忠信は義経を主君としたためか源頼朝にうとまれて亡くなっています。

     荒神様        延命地蔵尊       多々野古墳の石室
  

 ところで、源平合戦では頼朝の部下と義経が共同して平氏と戦っています。しかし、頼朝の部下と義経の協力関係がうまくいかなかったようです。その原因は、頼朝の部下と義経の功を急ぐ姿勢が合わなかったようです。そのため、源平合戦が終わった後、義経と頼朝との確執が表ざたなってきました。例えば、頼朝の許可を得ずに天皇から位を授かったりと、源氏棟梁である頼朝の逆鱗に触れたようです。私が思うに、天皇支配から抜け出したかった武士団の棟梁頼朝からみて、義経の行動は自分裏切る行為ととれたのではないでしょうか。

              源義経の供養塔


 さらに、鎌倉に来た義経にそっけなくして、東北の藤原氏に逃げるように向かわせたのではないでしょうか。そして、それを藤原氏を滅ぼすきっかけにしたのではないかと思います。なぜ頼朝が天皇と距離を置いたのか、義経はその理由が最後まで分からなかったのではないかと思います。つまり、滅んだ平氏と同じで、武家が天皇から独立する考えを理解できなかったのではないかと思います。つまり、新しい時代を読めなかったのではないかと思います。

     N邸内の人丸様祠           荒神様と明神様のお社
 

 佐藤継信・忠信供養塔を見学後、荒神様、延命地蔵尊、多々野古墳石室を見学しました。そして、本命の源義経供養塔に行きました。12世紀に戦われた源平合戦において、瀬戸内海を平氏を追って進軍する源義経はこの地区に来たようです。同じような伝説が平生町宇佐木にも残っています。当時の新庄は海でした。ここで食料などを調達して、さらに壇ノ浦に向かって進軍したのでしょう。

   フラワーランド方面を下ろす鉄塔からの景色、田布施方面を見て


 今の柳井は駅近くが栄えています。しかし、平安・鎌倉時代は新庄方面が栄えていたのではないかと思います。今の柳井はどちらかと言うと開作で広がった町です。江戸時代になってから白壁の街近くが商人の街として栄えたようです。元々は新庄付近は楊井(やない)氏が治めていたそうです。もしかして、柳と井戸ではなく楊井氏の方が柳井の由来かもしれません。鎌倉時代の領主名が土地の名前となるケースがとても多いので。

       史跡巡りウォーキングの下見をした柳井市新庄方面ルート

コメント
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