夏野菜の畝を壊して、秋冬野菜である白菜用の畝を作りました。今回は、その畝に肥料をまいて耕耘し、黒マルチをしました。そして、先日作った白菜の苗を植えつけたり、去年と同じように白菜の種をまきました。夕方に作業したのですが、まだまだ残暑が厳しい日が続いています。休み休み作業しました。
まず、最初に肥料を筋状にまき、耕耘機で耕しました。肥料が土に混ぜ込まれると、今度はレーキを使って畝の形になるように整形しました。雑草の根がレーキに絡みつきますので、丁寧に払いのけながら作業しました。
畝に肥料をまいて耕耘 レーキを使って畝の形に整形
畝の形に整形すると、その上に黒マルチをピーンと張りました。両サイドなどに土を寄せて風で飛ばないように固定します。そして、いよいよ白菜苗の植え付けと種まきです。最初、苗を植えつけました。この夏の猛暑でやや小さめの苗に育ちました。それでも、種まきするよりは2週間程度は収穫を短縮できます。苗を植え付け終わると、種をまきました。一つの穴に5粒程度まきました。苗も種も、一ヶ月後頃に一本に間引きします。
箱で育てた白菜の苗を植え付け 苗を植え付け終わると、種をまく
去年は白菜を作りすぎて、だいぶ余らせてしまいました。今年は、食べる分だけ栽培することにしました白菜の次にはキャベツやチンゲンサイなどの葉物野菜の種を次々にまきます。またタマネギの苗を作ります。これからは結構忙しい日々が続きます。
白菜の苗を植えつけ終わり、種もまき終わると、その畝に寒冷紗を被せます。そのために、自作した竹製のU字支柱を何本か挿しました。作ってから1年になる支柱でが、またまだ使えます。大事に扱えば来年も使えそうです。
苗を植え付け終わり種もまき終わった畝に、U字支柱を挿す
U字支柱を挿し終えると、その上に寒冷紗を被せました。プロの農家も同じですが、無農薬で野菜を作るには害虫を寄せ付けないことが大切です。その寄せ付けない方法の一つが寒冷紗です。農薬を使えば手軽なのですが、私は寒冷紗を使って無農薬野菜を作っています。黒マルチや寒冷紗を使うことは、作業的には大変ですが農薬を使わないためのコストと思って割り切っています。
U字支柱の上に寒冷紗を被覆 寒冷紗を張り終わった白菜畝
先日、国木田独歩の作品「帰去来」を改めて読み直しました。田布路木から高塔※の吉見家までの道筋のことが書いてありました。その中で、八海から高塔までの道筋に興味を持ちました。いったいどの道を独歩は通ったのだろうと。なお吉見家跡は、田布施川沿い史跡巡りウォーキング8回シリーズの3回目で通りました。ウォーキングに参加された方々に説明しました。
※高塔の地区名は戦後、藤尾,下山,旭の一部を統合して「高塔」に
高塔にある吉見家仮寓後跡碑 今は舗装道路になっている、かつての峠
まず独歩は、高塔にある吉見家に着く直前に山深い谷を越えたと書いています。その谷はもうありません。私が子供の頃、その深く谷のようになっていた細い峠道を通って高塔と八海を往復していました。今その谷や峠は、削られてただの舗装道路になっています。ここが昔、谷があり峠があったことを知る人は少なくなりました。
八海には古道を含めて、三つの国道188号線
今の八海には今、古いコンクリート製橋(二代目八海橋)があります。その橋は、近年の護岸工事のさい田布施側が撤去されています。平生側は予算のつごうで撤去工事できずそのまま残されているとのことです。そして、その隣に新八海橋(三代目八海橋)があります。ところが明治・大正時代、その新八海橋から200mくらい下流にさらに古い石橋(初代八海橋)がありました。
その石橋ができる前、江戸時代や明治時代初期にその対岸を結ぶように渡船場がありました。その渡船の仕事をしていた家の屋号は「渡屋」(わたしや)と言い、まだその家があります。その石橋の架橋年が分からないのですが、国木田独歩はその石橋を渡ったか、または渡し船を使って高塔の吉見家に向かったはずです。なお、この石橋跡については、田布施川沿い史跡ウォーキング8回シリーズの4回目で、一緒に歩いた方々に説明しました。
石橋と渡船場の跡 三新化学側の石橋跡
この石橋(初代八海橋)を調査していると、その石橋の写真が八海公会堂に展示されていることを知りました。八海公会堂に入らせていただき、その石橋の写真を撮影させていただきました。その石橋はキジヤ台風(1950)とルース台風(1951)で倒壊したそうです。その時、すでに二代目八海橋ができていたため、石橋は修復されず廃棄されたとのこと。
この石橋は、柳井にまだ残っている旭橋にとてもよく似ています。その旭橋はこの冬に歩いて渡ることができました。しかし、今は歩行者も含めて通行禁止になっており、倒壊するのを待つだけです。この旭橋は、3本の橋脚などがとても初代八海橋に似ています。
渡船場に架けられた初代八海橋 初代八海橋の位置
初代八海橋にとても似ている柳井の旭橋、倒壊の恐れがあるため現在通行不可
ところで、初代八海橋を調査していて面白い橋を知りました。初代八海橋と対になっている「こくぼ橋」(漢字名は不明:小窪橋?小久保橋?)がまだ残っているのです。そこで、その小窪橋を調査してみました。三新化学の平生側にその橋は残っていましたが、とても橋とは思えない姿です。何十年も誰も渡らないため、橋かどうかわからないほど雑草で覆われていました。雑草をかき分けてその橋の中央に行ってみました。生い茂った草の下を探すと、確かに橋の手すりがありました。初代八海橋とこの小窪橋は同じころ作られたのではないでしょうか。
何十年も忘れ去られ、草に覆われた小窪橋(こくぼばし)
その小窪橋の袂近くに、古い井戸のような石組とお地蔵様がありました。何のための石組なのか分かりません。もしかして、この付近に広がっていた塩田に関係しているのではないかと思われます。なお、この石組傍に、先端を縄でつながれた朽ちた竹竿2本が倒れていました。最近お参りか祈祷があったような形跡です。近くの玖珂島神社に関係があるのでしょうか。その石組傍のお地蔵様には文字が刻んでありました。その文字を読み取れば何か分かるかも知れません。
八海地区にあるお地蔵様と 平生真覚寺近くの交差点
よく似た石組傍のお地蔵様 左は竪ヶ浜、手前は八海、右は平生街
なお、そのお地蔵様にとてもよく似たお地蔵様が、初代八海橋があった場所にもあります。八海地区の方々が、そのお地蔵様を大切に守っています。同じころに初代八海橋に一つ、小窪橋に一つお地蔵様が作られたのではないかとも思われます。
ところで、独歩の「帰去来」に田布路木峠から高塔山が見えたと記述されています。そこで、実際に田布路峠に行ってみました。しかし、家が建ち並んで見えませんでした。少し平生側に行くと、ようやく見えました。
田布路木付近から見た高塔山
8月18日に、八海地区の初代八海橋袂にあるそのお地蔵様を祀る催しがありました。参加された方に聞くと、天保8年(1837年)にお地蔵様が置かれたと、代々言い伝えられているとのことです。天保8年に石橋が作られたとは思えないので、船による渡しがあった頃に作られたようにも思われますが不明です。
なお、お地蔵様を祀っていた女性の住職様は、千坊山光福寺の住職様でした。1週間ほど前に千坊山光福寺の88番個所を回り、住職様とお話しをしたばかりです。再会してその住職様も私を見てびっくり、握手を求められました。私も、八海で再会することになるとは驚きました。
お地蔵様を祀っている千坊山光福寺のご住職様、それを見守る八海地区の方々
国木田独歩が歩いた平生から高塔の吉見家までの道のりは、平生真覚寺すぐ近くの交差点から南西に歩き、小窪橋を渡り、初代八海橋を渡り、峠を越えて高塔に入ったと思われます。ただし、初代八海橋の建築年代が不明のため、橋を歩いて渡ったのか、渡船場の船で渡ったのかは分かりません。もう少し調べる必要があります。
三つの八海橋の位置関係と小窪橋 ※旧旧八海橋は初代八海橋のこと
赤線は実際に歩いて調査したルート
八海橋の変遷については、平生町の発展と関わりがあります。江戸時代初期は今の平生町は海でした。江戸時代に干拓・開作が進んで、今の平生町の基礎となりました。
下図で、茶色の線は江戸時代後期から大正時代頃までの幹線(当時は国道と言わなかったかも)でした。そのルートは、天池を大内川沿いの道を野島まで行き、そこから平生街の中心を通り、真覚寺近くのT字路を分かれて、こくぼ橋を通り、田布施川に到達します。田布施川は渡し船を使うか初代八海橋を通って麻郷に行きました。その頃は、徒歩か大八車程度でしたので細い道でした。この細い道を、馬車やバスが通っていたそうです。私が幼児の頃、平生街を馬車が通っていたことを覚えています。
その後、昭和20~30年代に下図の橙色のバイパスができました。今の平生クリニックや平生郵便局前の道です。私が幼児の頃、このルートを舗装工事していました。この頃、角浜付近は塩田が広がっていました。
そして近年、下図の黄色のルートになりました。このルート付近は私が幼児の頃、広々とした田んぼが広がっていました。この広い田んぼの間を、当時の平生保育園からとぼとぼ歩いて帰ったものでした。
これら幹線道路(国道)の変遷に伴って、八海橋の位置も変わったようです。なお、人島橋(1812年架橋の木製橋)が架かった後に、初代八海橋(石橋)が架橋されたと思われます。このため、江戸時代後期は人島橋を渡って平生に行くことができました。なお、平生町のバスルートが複雑なのは、この国道の変遷が関係していると思われます。
田布施も道が大きく変わりました。田布施の変遷も合わせて調べると、面白いと思われます。
八海~宇佐木間の幹線道路(国道)の変遷
そろそろ、秋冬野菜の種まきなどを始めなければなりません。そのため、夏野菜の畝を綺麗に整理することから始めました。トマト,キュウリ,そしてピーマンなどは盛りを過ぎましたので綺麗に片付けました。まず初め、キュウリを登らせるためにキュウリネットを張っていた支柱を解体しました。
脚立に登ってキュウリネットを張っていた支柱を解体中
支柱を解体すると、今度は畝に敷いていた雑草避け黒マルチを外しました。雑草避けとは言え、雑草の根がびっしりと付いていたため外すのは大変でした。もう少し厚いシートならば根が入り込まないかも知れません。しかし、そのようなシートは価格も高く、あまり売っていません。使い捨てと思えばいいのかも知れません。
雑草避け黒マルチを外す 黒マルチを外した後の何もない畝
黒マルチを外した後、耕運機で丁寧に耕しました。夏にびっしりと生えた雑草の根が耕耘機に絡みつきますが、構わず耕しました。何往復もするうち、綺麗に耕すことができました。
今後は、畝を作り直した後に肥料をまいてからもう一度耕します。そして、秋冬野菜用の黒マルチを被せます。
雑草の根が絡みつくも、構わず耕運機で耕す
黒マルチを被せると、程度な間隔で穴を開けてから種をまきます。そして、竹で作った支柱を刺してから寒冷紗を被せるつもりです。白菜やキャベツのような野菜は、冬になるまで害虫対策は必須です。農薬を使わないで野菜を育てるには、この寒冷紗は欠かせません。
なお、2,3日前に下草刈りした桃園、刈った草が乾燥して綺麗になっていました。
耕し終わった畝の一つ 近くの桃園の下草も綺麗に
今年も栗を収穫する季節がやって来ました。去年よりも一週間ばかり早く、栗が落ちていました。この栗の木は、数年前に台風で、いったん倒れたそうです。その後、木の根元から枝が生えてきたものの、一昨年までは栗がまったく収穫できませんでした。今年は、木が大きくなったのか去年よりは収穫量が多そうです。
栗の木の上方に、栗が入ったイガ栗がたくさん見える
去年の冬、根元から出ている枝をだいぶ剪定しました。剪定の結果、それぞれの枝は太く大きくなりました。そのためでしょうか、収穫量が増えると共に、大きな粒の栗もいくつか混じって落ちていました。
口を開け、中の栗が見えるイガ栗 地表に落下したイガ栗
我家の栗の食べ方はおおむね二通りです。一つ目の方法は、砂糖を入れた甘い汁で煮た後に冷まし、ハサミや包丁で厚い皮を剥いで食べる方法。少し手間がかかります。二つ目の方法は、煮て冷ますまでは同じです。その後、包丁でパックリと二つに割るように切ります。その後は、スプーンで中の実をかき出すように食べる方法です。
パックリと大きく割れたイガ栗、もう少しで実は地上に落下
せっかく落下した栗の実ですが、獣に食べられてしまうことがあります。近くに住んでいるタヌキやアライグマなどが食べます。奥深い山ではイノシシが食べるようですが、私の住むところまでは出現しないので安心です。とにかく獣達よりも早く見つけることが肝心です。
今は、小さな栗や大きな栗が混じっていますが、さらに木が太くなれば大きな栗を安定して収穫できると思います。
栗があちこちに落ちている 今回収穫した大小の栗
このNEC製トランジスタラジオ NT-625の修理履歴です。それぞれをクリックしてください。
修理(1/6) 修理(2/6) 修理(3/6) 修理(4/6)
修理(5/6) 修理(6/6)
プラスチックの筐体が乾く間に、電子回路基盤の確認をしました。電源端子に規定の9Vを繋いで、ちゃんと放送を受信するかなどを確認しました。すると、あらかじめ分かっていましたが、放送はちゃんと受信するものの音声が小さいことが一番の問題でした。音声が小さい原因はほとんどが電解コンデンサの容量抜けです。そこで、電解コンデンサを調査しました。
端子に電源の9Vを繋いで、各部をチェック
すると、低周波増幅初段のバイパスコンデンサが見て分かるほど凸凹変形していました。正確にはテスターで測るのですが、明らかに異常であることが分かります。このコンデンサを同じ値の正常なものと交換しました。
変形している電界コンデンサ 正常なコンデンサと交換後
コンデンサを交換すると音が大きくなったたため、電界コンデンサの交換は正解でした。次に、乾かしていたプラスチックの筐体を元通りに組み立てることにしました。薄いアルミ板はとても曲がりやすいので、注意深くプラスチックの筐体にはめ込みました。
乾かすため外していた薄アルミ板 薄アルミ板の端を筐体にはめ込む
二枚の薄アルミ板をそれぞれ、表と裏のプラスチックの筐体にはめ込みました。筐体も薄アルミ板も洗浄して乾かしたので、以前よりぐっと綺麗になりました。あとは、電子回路基板やスピーカーなどをこの筐体にネジで取り付けるだけです。
薄アルミ板をはめ込んだ、表と裏のプラスチックの筐体
最初、イヤホン端子を筐体の穴に取り付けワツシャで固定しました。続いて、スピーカーを筐体に取り付けました。スピーカーをはめ込んだ後、それを抑える金具をネジで固定します。二ヶ所固定します。電子回路基板は最後にネジで取り付けました。
イヤホン端子をはめ込む スピーカーを押さえる金具をネジで固定
このようにして無事に修理を終えたと思ったら、新たな問題を見つけました。確認のため再度ラジオを聴きました。すると、音が大きくなったのは良いのですがどうも発信気味なのです。昔、真空管ラジオで再生をかけたようなかすれ音が聞こえるのです。場合によってはピーピー鳴ります。ボリュームを絞ってもピーピー鳴ることがあります。まだ直さなければならない故障があるようです。
回路基板を筐体に固定するも、新たな故障を発見
灸川を山口クボタ田布施まで来たところで、灸川の調査ウォーキングを終えることにしました。それより上流は、人数川を支流とし、大波野の田んぼ脇にある有田翁碑を過ぎてさらに北に向かって山に続いています。途中、江平橋から支流が分かれています。なお、灸川上流は末惣川とも言うようです。これら、灸川の源流は今後暇をみて調査しようと思います。
八和田付近の踏切 八幡八幡宮の石鳥居
帰り道は、同じ道をたどらないようにしました。八和田付近の踏切を越えて、八幡八幡宮前の道を通りました。途中、灸川の支流の一つである符中川,新溝川,佃川,江崎川,徳吉川などを調べてみようかと思いましたが、時間が無いためやめました。いつか暇を見て調査しようと思います。八幡八幡宮は以前来たことがあるためスキップしました。八幡八幡宮の石鳥居を見た後、道を南にどんどん進みました。途中、運動会の練習をしていた東田布施小学校のそばを通りました。運動会で使うテントがいくつか張ってありました。もしかして、麻郷小学校と同じ15日が運動会ではないかと思います。
運動会で使うテントがいくつか張ってあった東田布施小学校
東田布施小学校を過ぎて、再び踏切を渡って東田布施公民館横を通りました。ところが、この付近の道を良く知らないため、あちこち道を迷いながら南へ南へと歩き続きました。歩き続けていると、いくつかのクリーク(水路)がありました。この付近を通っているクリークは皆、方向的に堀川に向かっているようです。
東田布施公民館の横を通る 徳吉川と思われる川
道をどんどん南に歩いて行くと、田布施街に入りました。そして、神田呉服店や池本精肉店などの店がある十字路に着きました。この十字路を田布施駅方面に50mほど行くと大恩寺です。この十字路すぐ南に薬師川が流れていました。この川は瀬戸方面から流れてきています。この川は、ピクロス付近で蓋で覆われいったん消えますが、田布施中学校付近でふたたび姿を現します。
神田呉服店の裏を流れる薬師川 奥ゆかしい古い建物
その後、保育園と天神様(菅原神社)横を通って、天神交差点に出ました。そして、傍にあるローソンに行ってジュースを買い、外で立ったまま喉を潤しました。ここまで歩くと、さすがに足が少し疲れてきました。ローソンからは、法寺坊方面から流れてくる水路沿いに歩き続けました。法寺坊近くには、今でも共同墓地があり、昔はこの付近に焼場があったそうです。そして、その近くに船の舳先を回転させる船回しがあったそうです。昔はここから船で、田布施の荷を出していたのでしょう。
水路をどんどん南に歩くと、中央下水道(排水路)に着きました。中央下水道を過ぎると、ひたすら広々とした田んぼの真ん中を歩きました。広大な田んぼの南方向に箕山が見えました。
広大な田んぼの向こうに見える箕山
広大な田んぼを通り抜けると、田布施川の堤防にたどり着きました。ここからは、これまで歩いてきた、柳井余田の西山地区、赤子山。熊毛南高校、天神様、そして東田布施方面を広く眺めることができます。
田布施川から見た赤子山 庄山橋袂からみた浮島神社方面
歩いた総距離は13kmでしたが、灸川だけに限ればは6km程度だと思います。高低差がないルートのため、この距離ならば小学生でも安心して歩くことができます。一か所だけ草木が茂って歩けない個所がありました。しかし、その個所は迂回ルートがあります。
ところで、灸川付近を散策中に子亀を捕まえることになろうと思いませんでした。私は大学生時代、東京で子亀「六助」を3年間位飼っていました。六助は、水槽の横をトントン叩くと、藻の間の中から首をすーっと出しました。そして、手渡しでソーセージなどの餌を食べさせていました。そして、時々甲羅干しをさせ、冬はちゃんと冬眠させていました。
庄山橋から見た川添橋(スタート地点 兼 終点)
下のB地点は、水路Aと薬師川が立体交差する十字路です。水路Aの水は北から南へ流れ、薬師川の水はその上を西から東に流れています。水路Aと薬師川の水は混じり合いません。薬師川の水は、堀川に合流すると北から南に流れを変え、さらに中央下水道に合流します。
ふだん何気なく車で通り過ぎてしまう田布施かいわいですが、こうしてウォーキングしてみると、意外な場所や意外な歴史に触れることができます。そして、自然が減ったとは言え、野生の亀などがまだちゃっかりと生きていることも知りました。これらは実際に歩かないと分からないことです。
ピンク色の線は、実際に歩いたルート
県道をどんどん柳井方面に進んでいると、運動会の練習とおぼしき放送がだんだん聞こえてきました。東田布施小学校です。小学校が見える付近で、県道に沿うように灸川堤防が迫ってきました。草が茂る堤防に上がり、正面に柳井市の大平山を見ながら八和田方面に向かって歩きました。
灸川の堤防に登り、八和田方面に向けて歩く。向こうに大平山
八和田に着くと、堤防近くに大きな石塔がありました。その石塔には階段が付いていました。何かお供えをするためか、火でも灯すのでしょうか。石塔からは、県道の向かい側に八幡八幡宮の石鳥居が見えました。そして、傍に灸川に架かったコンクリート製の橋がありました。
その橋を渡って、灸川の左岸堤防沿いをどんどん下流に向かって歩きました。しばらく快適な堤防道です。右手に東田布施小学校や田布施街を見ながら、そして左手に余田西山集落を見ながら歩きました。
八幡八幡宮を正面に、石塔 石塔近くの、灸川をまたぐ橋
しかし500m位灸川を下った場所に来た時、堤防は草木で覆われていました。そして、それ以上進めませんでした。仕方なく、田んぼを東に横切って余田西山地区の集落に出ました。そして、八和田方面に引き返しました。石塔を少し過ぎた場所に、同じようなコンクリート製の橋がありました。
その橋を渡った近くに、「流れ恵比寿」の祠がありました。田んぼの真ん中にある小さな祠です。伝説では、大昔この付近がまだ「唐戸の瀬戸」と呼ばれていた海峡だった頃、宮島から恵比寿様の木造が流れ着いたそうです。その恵比寿様を祀ったのが、この祠の始まりだそうです。昔は相撲や出店などのお祭りがあり、とても賑やかだったそうです。
行き止まりの灸川左岸堤防 灸川傍の「流れ恵比寿」の祠
「流れ恵比寿」の祠を見学後、再び灸川に戻り上流に向けて歩きました。この付近まで来ると、目の前に赤子山が見えてきます。広々とした田んぼの向こうにそびえる赤子山。天気が良いこともあり、田んぼの薄緑、赤子山の濃い緑、そして真っ青な空はコントラストが映えてとても綺麗です。堤防斜面に腰を下ろして休憩しました。
広々とした余田の田んぼの向こうに見える赤子山、絵になる風景
休憩後に灸川をどんどん上流に進むと、灸川は北に向きを変えます。そして川幅も狭くなりました。県道と交差する場所に、いつも行く農機具店の山口クボタ田布施が見えてきました。農機具の部品を注文するためによく行くお店です。山口クボタ田布施の向こうには、石城山や行者山が見えます。
灸川が北に向きを変える クボタのお店の向こうに行者山が見える
山口クボタ田布施が間近に見えるようになると、東方面にJA南すおう柳井ライスセンターがよく見えるようになります。そして、その向こうに柳井の三ヶ岳や琴石山が見えるようになります。ところで、余田には租税完納塔があります。近郊の農村が不作で一揆が起きていた頃、余田では一揆が起きなかったそうです。租税完納塔が立つほど、昔の余田は豊かだったのでしょう。
JA南すおうライスセンターの向こうに、三ヶ岳(左〇)や琴石山(右〇)が見える
灸川は、通行できない堤防沿いの道が一か所がありました。このため、だいぶ道を迂回してしまうことになりました。このため、予定になかった柳井市余田の西山地区を歩きました。しかしながら、八和田付近から灸川はずいぶんと天井川になっています。川底が周りの田んぼより1,2m高いのではないかと思われます。万が一、大雨の時に堤防が決壊すると付近は冠水するのではないでしょうか。
不思議に思うのは、どうして灸川は柳井側ではなく平生側に流れこんでいるのでしょう。大昔、海が柳井市余田の西山近くまで来ていたことに理由があるように思います。平生側の方に流した方が、早く海に水が流れ去るからです。もし、余田に流れ込んでいたら、余田,新庄,古開作などの広大な田んぼが水害に見舞われたでしょう。人工的に平生側に流れるようにした気がしてなりません。
ピンクの線は、今回歩いた灸川に沿うルート
熊毛南高校を過ぎて、どんどん灸川を上流に向けて進みました。高校の裏には荒木神社があり、横にはこの灸川が流れているのですが、高校生のころあまり興味がありませんでした。一度だけ美術の時間に教室から抜け出し、灸川付近の堤防付近から高校校舎や西山集落の絵を描いたことがあるだけです。こうして、再び高校の横を歩くようになるとは当時は思ってもみませんでした。※動画は熊毛南高校傍を流れる灸川です。
熊毛南高校校舎とその横を流れる灸川、当時と変わらない流れ
熊毛南高校を過ぎて柳井市余田西山地区との境に来ると、ぐっと川幅が狭くなります。この付近に来ると、やたら「ボチャン!ボチャン!」と川から音が聞こえてきました。最初、牛ガエルか鯉かと思っていました。しかし、よく見ると大きな亀でした。この付近の灸川には亀がたくさん住んでいるようです。その亀をよく観察すると、外来のアカミミガメです。よくお店で売っているミドリガメです。その亀が大きくなって野生化したでしょう。この川で、いったい何を食べて生きているのでしょうか。
亀がたくさん住んでいる灸川 柳井市,平生町,田布施町の境界付近
しばらく歩くと柳井市余田の西山地区に着きました。この付近に昔、田布施方面からの薬師川が流れ込んでいました。しかし、道と川筋後は残っているのに、川はありませんでした。かつて灸川に流れていた薬師川は、のちに人工的に運河として作られた堀川に流れ込むようになり流れが変わったのでしょう。灸川に流れ込んでいた場所に小さな防潮扉が残っていました。昔は、ここまで海の潮が来ていたのでしょう。
ある方に聞いたのですが、昔堀川には船回しと呼ばれる船溜まりの場所があったそうです。今共同墓地がある法寺坊近くだったとのこと。川を上ってきた船を、その船回しで川を下れるように舳先(へさき)を方向転換させていました。昭和初期まででしょうか、この付近では船を使って荷物を輸送していたようです。つまりこの付近まで海の潮が上ってきていたのでしょう。掘川は当時、船が行き来する運河だったのです。その後、下流に堰堤ができ船が通ることができなくなりました。それが運河としての役目が終わった掘川でした。
柳井市西山地区を流れる灸川 昔流れていた薬師川の跡
灸川に架かる小さなコンクリート橋 防潮扉がその痕跡を示す
なお、私が子供の頃の昭和30年代始め、八海近くの田布施川では、満潮時に一本櫂の和船が時々行き来していたのを見たことがあります。当時何を運んでいたのでしょう。平生人島の川岸に、荷車が下りることができるような坂がありました。潮が満ちた時にその坂から船に乗り移っていました。また、その坂傍に和船がよく止めてありました。面白半分にその一本櫂を使わせてもらったことがありますが、船は揺れるだけでちっとも前に進みませんでした。
東田布施を目の前にして、灸川の堤防は草や木に覆われていて通れなくなりました。やむなく田布施方面に広がる、田んぼど真ん中の畔道を通って迂回することにしました。この付近の灸川堤防の草を刈る人がいないのでしょう。これまで歩きやすい堤防道だったのに、とても残念です。
草木に覆われて通れない灸川の堤防、正面〇は行者山
田んぼど真ん中の畦道を迂回しながら歩いていると、足元でガサゴソと音がしました。カエルでもいるのかと足元を見ると甲羅が見えました。子供の亀でした。灸川にいたのはアカミミガメ(ミドリガメ)でしたが、田んぼにいたのは草亀でした。田んぼで亀を発見したのは13年ぶりのことです。日本に昔からいる種類の亀です。アカミミガメ(ミドリガメ)は子供のうちはおとなしいのですが、大きくなると凶暴になります。凶暴なアカミミガメ(ミドリガメ)は灸川に,おとなしい草亀は田んぼにと、住み分けているのだと思います。
田んぼ ど真ん中の畔道 田んぼの畦道で捕まえた子亀
捕まえた亀を放して、田んぼをどんどん進むと掘川に出ました。川と言っても、側溝で仕切られた人工的に作られた直線の川です。魚もいなければ、当然亀もいません。流れが速いため、あまりゴミは溜まっていませんでした。底には藻か少し生えていました。もう少し、流れがゆっくりならば魚が住めそうな川です。堀川から県道に出ると、すぐ横にきらびやかな装飾のパチンコ店がありました。県道を柳井方面に向かって歩きました。
木製の橋が架かる掘川 県道横の、きらびやかなパチンコ店
下の航空写真で、A~B間には灸川に流れ込むかつての薬師川がありました。しかし、今は川は無く周辺の田んぼにその痕跡が残っているだけです。昔の薬師川は田布施街を通り抜け、堀川の上を交差して灸川まで流れていたようです。つまりA地点はかつて、堀川と薬師川が立体交差する十字路だったのです。つまり、十字に交差する立体水路だったようです。そのうち、A地点の立体交差をやめて、薬師川の水を直接堀川に流れるようにしたのだと思います。実際、薬師川と堀川には1m位の段差があり、薬師川の水は滝となって堀川に落ち込んでいます。なお、堀川と平行に流れている西隣の水路と薬師川は、今でも立体交差しています。
薬師川と合流した堀川は、中央下水道に合流し、その中央下水道は灸川排水機場で灸川に合流します。そして、灸川は田布施川に合流して瀬戸内海に流れ込んでいます。
ピンクの線は、灸川を調査しながら歩いたルート
先日の雨以来、ずっと家にいることが多かったため、田布施川支流の灸川を調査するためのウォーキングをしてきました。真夏のような暑さではなかったのですが、約13kmほど歩き続けると、さすがに体がほかほか暑くなりました。スタートは、田布施川にかかる川添橋です。この橋から少し田布施川を下ったところに灸川があります。
スタートした川添橋、天気良好 川添橋から田布施川下流を見て
遠くに見えるのは赤子山
灸川は大波野方面から蛇行しながらこの田布施川流れ込んでいます。この田布施川と灸川の合流地点は、少し深くなっており魚がたくさん泳いでいます。子供の頃、この場所でよく遊びました。江戸時代後半、この灸川と田布施川は同じ位の川幅のようでした。その痕跡があちこちにあります。そもそも江戸時代初期の竪ガ浜は海でしたので、灸川は当初熊毛南高校近くにあった海岸に流れ込んでいたと思います。干拓が進むにつれて、今のように川になったようです。なお古い昔、灸川は余田や新庄側に流れていたこともあったようです。
左の灸川と右の田布施川の合流地点
灸川からは左岸の道をどんどん上流に向けて歩きました。このルートは私が幼児の頃、祖母に連れられて田布施の天神様のお祭りに行く道でした。当時は、周りに田んぼしかないさびしい道が川に沿って延々と続いていました。この道は江戸時代初期は、海岸線だったようです。この道付近と竪ガ浜の間が海だったのではないでしょうか。
江戸時代初期の海岸線に沿う道 中央下水場と灸川が合流する
その後灸川の堤防となり茅が茂る 灸川排水機場
灸川は古くからよく決壊したのでしょうか、灸川排水機場から上流付近では、古い石垣や木の杭があちこち見られます。杭は水中だと長持ちするのです。ちなみに、イタリヤの水の都ベニスは、無数の杭の上に建てられてできた街です。杭や所々壊れた石垣を見ながら進むと、熊毛南高校手前の橋が見えてきました。
古い木の杭があちこちに散見 熊毛南高校傍の橋
橋に着くと、そこは懐かしい場所でした。下の写真で、左の道を進むと熊毛南高校の校門があります。右の道を進むと平生町に行きます。真ん中の家は、私が高校生だった頃はお店がありました。そして、このお店の前にバス停留所ありました。バスに乗る生徒は、このバス停留所でバスを待ちました。今、岩田方面からJR田布施駅に降りて、熊毛南高校に通う生徒は、どんな交通機関を使っているのでしょうか。バスは無いので、自転車でしょうか。
私は、当時から歩くのが好きでした。このため、毎日のように麻郷と高校の間を歩いていました。帰り道、灸川の広い堤防斜面でよく昼寝をしたり魚釣りしながら帰りました。当時の私は、クラブ活動もしない自称孤独を愛する高校生でした。
懐かしい、熊毛南高校傍のバス停留所跡
今回ウォーキングして改めて気がついたのは、田布施はとてもクリーク(水路)が多いことです。古代の田布施は海でした。そして江戸時代初期に、ようやく竪ガ浜までに海が後退しました。海抜に近い当時の田布施は、しばしば氾濫が起きたと考えられます。水を海に排出するために、たくさんのクリークが作られたのではないかと思います。田布施街内の水路は上に蓋が置かれて、水路があることさえ分からなくなりました。
スタートしてから灸川を上流に向けてウォーキング、そしてクリーク沿いに帰る
ピンクの線は、今回歩いたルート
雨が降った後、トウモロコシの収穫をしました。しかし、種まき後、一度も肥料もやらず、しかも無農薬でしたので、予想していたとは言え散々の収穫でした。7月の段階でだいぶ害虫にやられていました。収穫がわずかな一番の原因は害虫です。どのトウモロコシもアワノメイガと呼ばれる、芯に食い入る虫にやられていました。葉や茎の表面を食べる害虫ならばスプレー式の農薬散布で退治できます。しかし、芯に入って内側から食べる害虫は退治のしようがありません。あちこちで、トウモロコシの茎が折れていました。
芯を害虫が食べてしまい、茎が折れてしまったトウモロコシばかり
かろうじて、害虫の被害が少なかったトウモロコシの実がわずかにありました。その貴重な実を食べようか、来年の種にしようか迷っています。害虫にやられなかったトウモロコシは、もしかして何らかの害虫に対する抵抗性があるのかも知れません。とにかく、収穫した実はいったん全て天日乾燥することにしました。
害虫に入られなかった実 すべての実を天日乾燥
被害にあった実には、ほとんどがアワノメイガと呼ばれる害虫が入っていました。そして、実の中に、トンネル状に食べた穴が開いていました。そして、もう1つの被害は、先日の台風後の長雨です。その長雨で、実が発芽してしまったことです。こうなると食べることができません。
トンネル状に食べられた実 長雨で発芽してしまった実
今回収穫した実のうち、まともなのは一本だけでした。貴重な一本、食べようかと思いましたが、今年はこの一本から取った種を来年まいてみようかと思います。無農薬で害虫の被害にあわない一番の方法は、トンネル状に寒冷紗で覆うことです。しかし、そのためにはトンネルを設置するなど費用がかかります。プロ農家であれば費用をかけるでしょうが、自給用程度の収穫で充分の私にはとても費用をかけられません。来年は対策を少しでも考えようと思います。
まともなトウモロコシは、この一本だけ
このNEC製トランジスタラジオ NT-625の修理履歴です。それぞれをクリックしてください。
修理(1/6) 修理(2/6) 修理(3/6) 修理(4/6)
修理(5/6) 修理(6/6)
このところ雨ばかり降っているため、先日直し始めたNEC製のトランジスタラジオNT-625を続いて修理することにしました。今回は、電子回路箇所ではなくプラスチックのケースを綺麗に洗うことにしました。まずは、ラジオを分解して電子回路基盤を取り出しました。
トランジスタラジオの裏蓋を外して、回路基盤を取り出す
回路基盤を取り外すと、続いてイヤホンを取り外しました。そして、スピーカーも取り外しました。これで、回路基盤をプラスチックケースから分離することができました。古いラジオはスピーカーに埃が溜まっているものです。このラジオも積年の埃が溜まっていました。この埃を、使い古しの刷毛ではらうようにして取り除きました。
イヤホンをケースから取り外す スピーカーに付いた積年の埃
次にプラスチックケースから、細穴が無数に開けられたアルミ板を取り外しました。プラスチックに固定する突起部を緩めて取り外します。このアルミ部分は、ラジオを落としたりして凹んでいることがあります。幸いこのラジオのアルミ板はあまり凹んでませんでした。このアルミ板を外すと、やはり積年の埃がびっしりと付いていました。
細穴アルミ板を外すとたくさんの埃が付着
ケースをプラスチックと細穴アルミ板に分解すると、それぞれを石鹸を付けた使い古しの歯ブラシで洗浄しました。刷毛ではらっただけでは落ちない埃が、これで綺麗に落ちます。細穴アルミ板は力を入れすぎると曲がりやすいので、力を加減しながら洗浄します。洗浄が終わると流水につけて石鹸分を取り除きます。そして、タオルで軽く水気を取り除きます。
歯ブラシに石鹸を付けて洗浄 力を加減しながら細穴アルミ板を洗浄
タオルで水気を取り除いても、狭い箇所にはまだ水が残っています。その水を取り除くため、洗濯場ばさみに吊るして一日乾燥します。今回は雨が降っていたため、室内に吊るして乾燥することにしましました。明日か明後日、乾燥していることを確認後再度組み立てます。
洗濯ばさみに挟んで吊るし、明日か明後日まで乾燥
コンデンサヘッドホンの入った箱と一緒に、真空管アンプが入っている箱も見つけました。私が自作したアンプで、真空管を使った最後のものです。真空管を使って並4,高1,そしてスーパーなどのラジオを作りました。しかし、真空管を使ったものはこのコンデンサヘッドホン用アンプが最後でした。
+-それぞれ200Vを直接ドライブするアンプです。このため、出力トランスを使っていません。使っているトランスは電源用だけです。使っている真空管は確か、オーディオ用のMT管だったように思います。なお、段ボールに入れる時に邪魔にならないようにスイッチやボリューム類を外していました。
6本のMT管、オーディオ用の双三極管を使用
私が学生時代はオーディオブームでした。私はジャズを演奏していた関係で、100枚近くのLPを購入したり、それを聞くためのオーディオ装置をアルバイトで貯めたお金で購入しました。私が大学時代、山口県に一度も帰省しないで一ヶ月近くアルバイトして貯めたお金で真空管アンプキットを購入したことがありました。自分で作ったものもあり、この真空管アンプもその一つです。購入すると高価なため、雑誌か何かに掲載されていた回路を参考にして制作しました。制作日付を見ると、私が入社した次の年です。あのころは寮に住んでいましたので、休日に寮でこつこつ制作したのでしょう。
外していたスイッチやボリュームなど 1文字1文字を丁寧に入れたソケット部
当時は真空管の他に、トランジスタやICを使って装置も作りました。これら半導体を使った回路は、基本的にプリント基板でつくります。私が学生の頃は、基板にアートワークやペンキを描いて作っていました。しかし、今はパソコンのCADソフトを使って作ります。一方、真空管は基本的に下の写真のように立体配線します。
コンデンサヘッドホン用真空管アンプの配線部(制作日付:1976.4.23)
この真空管アンプはコンデンサヘッドホンを+-200Vで直接ドライブしますが、電流がほとんどないので感電するようなことはありません。今から約40年前、最高のヘッドホンだったように思います。高音部がとてもシャープに出て、シンバルなどの高域を発生する音がとても良く出ていました。今でも通用するヘッドホンだと思います。今あまり音楽を聴くことがありませんが、いつかこの真空管アンプを使ってこのヘッドホンを聞こうと思っています。
ところで、このコンデンサヘッドホン、Staxでまだ製造しているようです。その価格を調べて驚きました。今では、なんと21万円です。学生時代はなんとか買えたヘッドホン、その超高価な値段に驚きました。40年経った今でも購入する人がいるのですね。
Stax製のコンデンサヘッドホン、今でもファンがいるようです
昨日(1日)の夜、私の同級生Eさんの自宅でミニ同窓会をしました。これまで個別にそれぞれの方に逢いましたが、こうしてみなさんと集まって同席したのは初めてです。当初1日前の31日夕方に開催予定だったのですが、台風15号が迫っていたため1日に延期しました。このため、数名の方が来ることができなくなってしまったのは残念でした。中でも、事前に手料理を準備していたN君、奥様のお母さまが急逝されて出席できなくなってしまいました。
早めに来てプレートで肉を焼く 途中で、女性陣に交代
ところで、私は早めに行って準備しました。最初、プレートを温めて焼肉をしました。しかしながら家庭料理が苦手の私、後から来た女性陣に交代していただきました。私は、焼けた肉などの料理を猫に取られないようにする番の役をしました(笑)。そうこうしているうちに、皆さんが集まってきました。
参加した元若者達、皆さん年月を経ていい顔になっています
皆さん、もう孫がいる世代になりました。それぞれ、人生経験も豊富でとてもいいお顔になっていました。子供の頃の悪がんとう時代を振り返りつつ、一気に青春時代の話、つれあいとのなれ初め、子供や孫のことなどで盛り上がりました。
私が中学高校生の頃は都会へのあこがればかりで、故郷への思いなど考えたことがありませんでした。こうして子供の頃に遊んだ幼なじみと、再び楽しく歓談できるようになろうとは思いもしませんでした。本当にありがたいことです。
午後6時から始まって深夜0時頃に終わりました。あっと言うまの時間でした。私は楽しい余韻に浸りながら、一人暗い田んぼ道を歩いて帰りました。深夜の玄関前、リンちゃんが私の帰りをじっと待っていました。
美味しい料理やお酒を堪能 幼き頃を振り返りながら楽しく歓談
台風15号から変わった熱帯低気圧のため一日中雨でした。この雨のため、農作業や外出ができません。このため、東京から持って帰ったたくさんの荷物を少し整理しました。たくさんの段ボールの中に、コンデンサヘッドホンが入った箱を見つけました。
このコンデンサヘッドホンでふと思い出したことがあります。それは10年位前のことです。介護福祉士の資格を取るため、世田谷区三田にある介護老人保健施設で実習をしていた時のことです。
お年寄りの方ばかりの中、私とそう年齢が離れていない若い方が介護を受けていました。その方と、このコンデンサヘッドホンのことで親しく話をするようになりました。その方との出会いのきっかけは、その方の枕元に私が持っていたのと同じヘッドホンがあったことです。
左の箱は、久しぶりに見つけたコンデンサヘッドホンSR-5
その方は、このコンデンサヘッドホンの会社(Stax)に勤めていた方で、部長クラス位の方だったようです。しかしある時、脳梗塞で仕事をやめざるをえなくなったとのこと。その方が、私の事をさかんに「うらやましい。」と言っていたことを思い出しました。
私はその頃「介護などは男のする仕事ではない。」などと言われたことがありました。そんなやや落ち込んでいた時、その方に「ほんとうに、うらやましい。」と言われて戸惑いました。その方が言うには「自分は仕事一筋で楽しかった。しかし、仕事ばかりしていたため奥さんと別れてしまい、さらに脳梗塞になって体がまったく動けなくなった。この体になって初めて、独り身の寂しさや健康のありがたさが身に染みて分かった。」とのことでした。
「どんな仕事をしていても、健康でありさえすれば最高ですよ。あなたがうらやましい。」などと、私に話しかけてきました。その時、健康であればこそと思い直しました。その方と出会って一年後、無事に介護福祉士の資格を取得しました。その後、デイサービスや病院を勤めあげることができたのは、その方の一言のおかげだったのかも知れません。
段ボールに収納されたヘッドホン コンデンサヘッドホンの規格
一昨日、雨が降る直前に分葱(わけぎ)を植え付けました。ほかにネギ類を植えているのですが、雑草がひどくて収穫ができません。たまたまDIYのお店で買い物をしていると、わけぎの球根を見かけました。秋ジャガイモを植えつけた場所が少し空いていたため、その空いた畝に植えてみました。
購入したわけぎの球根 雨で湿った畝を耕す
空いた場所を三本ぐわで掘り返すようにして耕しました。そして、畝をやや高くするようにしました。次にレーキで畝がかまぼこ型になるよう整形しました。続いて、わけぎが等間隔になるように二列に並べました。わけぎは覆っている茶色の皮を剥いだ方が良いのですが、いつ雨が降るかも知れないので皮を剥がないで植え付けました。
かまぼこ型の畝に、わけぎを二列等間隔に並べる
夏は畑の世話が猛暑のためにおろそかになりがちです。その結果、雑草が生い茂ってしまいます。その一方で、食べる量以上に収穫できる野菜があるため、かなりの数を捨ててしまいました。今年はキュウリ,キュウリ,トマトをだいぶ捨ててしまいました。収穫量が多すぎてしまうこと,雑草がすぐに伸びてしまうこと,猛暑で農作業が朝夕に限られてしまうことなど、私は一年を通じて夏が一番苦手です。
押し込むようにわけぎを植える 植えた後、レーキで均す
ところで、台風15号が熱帯低気圧になり九州に近づいています。曇ったり雨が降ったりですが、久しぶりに箕山方面を雲が下る現象を見ることができました。伊保庄側から雲が湧きあがり、平生大野側の谷を一気に流れ下る現象です。カメラを持って八海に行ったのですが、その現象が終わり始めていました。10分早くいけばもっと良い写真が撮れたのですが残念。動画を取って早送りすると、その現象がよく分かるのですが。
伊保庄から湧きあがり、平生大野側に流れ下る雲
(八海から平生湾越しに平生大野側を見て)