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顔は広がり、貌は絞られ

2011年02月17日 | 読書
 読むことは知っていたが、自分で書いた記憶がない文字にまた出合う。

 

 熊谷達也のエッセイ『勘違いのサル』(PHP文芸文庫)には、次のような副題がある。

 日本人の貌、作家の貌

 辞典で調べる前に自分なりの予想をたてると、「顔」が一般的な言葉で、「貌」は特徴や表情が強調されているものではないだろうか。

 「漢和大辞典」(学研)によると以下の通り。

 【顔】❶ひたい ❷かお、かおのようす ❸いろどり
 【貌】❶かたち 顔のかたちや姿 ❷かたどる ❸みたまや


 広辞苑、他の国語辞典では、二つの別はないが、ただ「顔」の意味は大きく拡がっている。例えば「面目」「態度」「知名度」…などのように。

 こう考えると、顔の方がより総合的に使われるということかもしれない。いわば人格、内面を兼ね備えた頭部前面とでも言ったらいいだろうか。
 それに比べて貌は、形、様子という表面性、限定性を持つようだ。「容貌」「美貌」といった熟語にもつながる。

 そうすると、熊谷氏が(いや編集者か)「貌」を遣った意味が想像できよう。章立てされている見出しを見てみよう。

 蝦夷と大和、ふたつの貌
 個人的なふたつの貌
 北海道の貌
 北の貌と南の貌
 作家の貌を暴く本


…まだいくつかある。こう並べると表面性、限定性とは言えなくなるような気がしてくる。
 つまり、表面的な様子に加え、行動や性質、出自などが要素として外見に滲み出ている様子とでもいえばいいか。「相貌」や「風貌」にはそのニュアンスが含まれる。「変貌」などもそういう意味づけが強い。
 ただ「顔」ほどの拡張性?がなく逆に絞り込まれている印象となる。

 ちょっと気どった遣い方のような気がする「貌」。
 しかしそう書くと、どこか思考的な印象を受けるのは私だけだろうか。

 そんなことを止めどなく想い、夜更けにディスプレーに向かう自分は、今どんな貌をしているのだろう。

 (初めて書いてみた。あまり必然性がないか)