すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

長い仕切りを続けてもいい

2011年02月08日 | 雑記帳
 かなり以前から読み始めたのだが、少しずつしか読み進めていない本がある。

 『日本語作文術 ~伝わる文章を書くために~』(野内良三 中公新書)

 いずれ全体の感想は書きたいと思うが、昨日たまたま読んだ箇所から思い浮かんだことを少しばかり…。
 「帰納論証」という章で、筆者が提示した例文である。

 日本人は常なきものに怪しく魅かれる不思議な国民である。

 「常なき」とは、無常観、はかない、ということだろう。
 その一つめとして桜が挙げられた。しごく当然である。
 二つ目は花火。これも納得である。日本人の花火好きはやはり他国の比ではないと思う。
 花火の系列として、シャボン玉遊び好きが軽く書かれている。これもなるほどと言っていい。
 そして、三つはこう来る。

 花火を愛する日本人は相撲を愛する国民でもある。

 ほほおっ、確かに。
 他の格闘技と比べものにならないほどの試合時間の短さ、そのことに何か不満をもつ国民はどれほどいるのだろうか。
 むしろその短さが魅力の一つとなっていることもあるだろう。筆者はこんなふうに書く。

 長い仕切り時間は一瞬の勝負を際立たせるためのお膳立てとも思えるほどである。

 日本人は瞬間的なものに嗜好を寄せる、と筆者はまとめる。
 そこに認める美の在り様は、どこか心の奥深く(もしかしたら何かのDNAですか)とつながっている。

 さて「常なき」の現象面だけを見て、それを「潔さ」に結びつけることはごく自然だ。
 ただそれがねばり強く議論を重ねたり、対応を練ったりすることを避ける方便にされても困る。

 桜も花火も相撲も、本当に多くの人間がかかわってその文化を築いてきたが、人がいる以上は裏で汚れる部分は必ずある。
 そこを踏まえてなお、桜や花火は、そういう醜さ、汚れを超える輝き、つまりは一瞬に力が結集される姿で楽しませてくれる。

 相撲はどうですか。
 相撲はどうなりますか。

 対象が人間であることは、これほどまでに重くどうしようもないものを抱えている。
 長い仕切りを続けてもいい。