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「学び合う学び」私的解題

2011年02月18日 | 読書
 『「学び合う学び」と学校づくり』(副島孝 PLANEXUS)

 愛知県小牧市の副島前教育長がネットで公開した「教育委員だより」が玉置氏の手によって編集されたものである。

 何度かサイトを訪問したことがあり、時間があるときなどは読みふけったこともある。その度に、教育者として明確に理念を持つ骨太なリーダー像が浮かび上がってきた。

 書籍としてまとめられた形は確かに読みやすくなったように感じたが、微妙に字面が流れる気がして、縦書きだったらよかったのではという思いも浮かんだ。

 さて、読み始めてから題名のことが気になり始めた。

 「学び合う学び」…よく考えると、かなり特殊な言葉遣いである。
 「○○合う○○」という使い方が他にも考えられるだろうか。難しくはないか。「学ぶ」「学び」だからこそ成り立つとも言える。
 学びほど多様な姿を包括する総合的な言葉はあまりないのかもしれない。
 だから、これは例えば「『学び合い』という技法」とイコールにはならないことも示している。

 「学び合い」を求めた著者の立場からの発信ではあるが、最終的に著者が目指すのは、次のことばで表されている。

 型を突き抜けたレベルの授業

 「技法」を突き抜けたレベルの授業


 小牧市ではそれらが「出現」し「時折見られるようになった」とある。著者が仲間とともに展開してきたことの成果の実感であり、羨ましい限りである。

 不勉強にして、いくつかある「学び合い」の型や技法について多くを知らない。しかし、どんな教育思想をもった型や技法であろうと上記のようなレベルに達するには、突き詰めていくことなしには実現しない。
 「突き抜ける」とは私に言わせれば、型や技法の応用・発展であり、深化・芯化であるように思う。

 ここまで書いてきて「学び合う学び」の、前者の「学び」は活動を表し、後者は能力・態度を表すときわめて単純に考えてはどうかと思いついた。
 もちろんそこに独自の教育観はあるだろうが、いくつかの言い替えによって成立させられる世界がある。
 そして肝心なのは「合う」ことであり、そこに場と機が必要になってくる。その持ち方が型とか技法ではないのか。

 極私的な解釈になってしまった。

 さて本にもどって、読書記録を中心とした第三章を読むと、それこそレベルが違うなと思い知らされる。
 自分も読んだ本の感想もどきを記してきたが、著者のように位置づけを明確にできない。
 大局観を持つということなのかもしれない。