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反対言葉の群生地はここにも

2011年02月09日 | 読書
 徳永進という方が、「反対言葉の群生地」と題した文章を『図書』(岩波書店)に書いていた。医療現場にいる著者が患者に接するときの言葉を取り上げて考えている内容で、実に興味深かった。

 がんの告知場面やホスピスでの言葉かけでは、一面的に正しい言葉が存在するわけではない。
 ただそのことを頭で理解していようとも、そこに一般的な常識や利己的、打算的な要素が入り込んだ時、発した言葉が一方的な響きを持つことはよくあるのかもしれない。
 
 「反対言葉」というキーワードを持つことで、一つ一つの局面において複眼的、共感的な言葉かけができたらとても素晴らしいことだろう。それには多くの「臨床」の場を踏み、患者や家族の気持ちに寄り添う経験が不可欠である。
 そこで発せられる言葉に耳を傾け、心を傾けてみることによって、水辺の植物のように様々な言葉が群生していくのかもしれない。そんなイメージが浮かぶ。

 臨床は医学用語であろうが、教育臨床という言葉も使われることから考えて、当然教育と共通する教えも多い。

 共感は大切だけど、共感という言葉だけがあがめられると、共感は臨床で力を失う

 受け身の踏み込み


 なかでも、出典は書かれていないが「名言」として紹介された言葉は、そっくりそのまま教員にも当てはまるのではないかと思う。

 「臨床家であろうとするなら、どんなに面白くないことからでも、面白いことを見つけ出す才能がわれわれには要る」

 子どもがいる以上、面白くないわけがない。

 昨日のスキー教室で、いわば下位ランクでマンツーマンの指導をうけた子どもがいる。最初は坂を上るのもおぼつかなかった彼だが、後半にはどうやら頂上から滑り終えることができた。
 終了後疲れきって立ち上がれなかったが、ようやく片付いた時に
「怖ろしいほど、簡単だった」という感想をもらした。

 何をたわけたことを言っていると笑ってはいけない。
 その言葉には、やり終えた解放感が満ち溢れているのだ。
 複雑・困難だった時間が長かったからこその表現だった。

 群生地は今まさにここにある。