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談志噺その壱

2011年02月03日 | 読書
 『人生、成り行き~談志一代記~』(立川談志 新潮文庫)

 聞き手が評論家の吉川潮。立川流の顧問にいる彼であったからこその企画だったと思う。
 生い立ちから様々なことが語られるが、やはり一番興味深い言葉はこれだった。

 人間の業の肯定

 世間の通念の嘘を見事に見せてくれる落語という存在には、そういう面があるように思う。
 「人間は業を克服するものだ」という通念が社会になければ、混乱は避けられない。業を全て認めることによって成り立つ社会など考えられない。
 しかし同時に、業そのものを全否定する文明も在り得ない。
 だからこそ芸術が生まれたという論も出てこよう。
 様々なジャンルで人の心を打つものは、けして清廉潔白や純情無垢なものでないことは少し考えればいくつも思い当たる。

 落語はその意味できわめて直接的であり、笑いも泣きも業の深さや根強さに左右される。登場人物のどの言動に寄り添えるのか、一度分析してみることも面白いかもしれない。

 もう一つ、気になった言葉がこれである。

 人間は自分を安定させるためにいろんなところに帰属するし、他人を見る時も、どこかに帰属させることで安心します。

 自分は所属意識が強い人間のひとりだと思うので、この部分を読んだ時は少しどきっとした。見事に言い当てられているような気がした。
 しかし所詮この程度の器と割り切れば、何かに帰属していることはある面の強さに通ずるのではないか。

 「落語に帰属する、落語に縋る(すがる)」という表現もでてくるが、縋るは「たよりとする」という意味の前に「結び目ができる」ということである。
 帰属していることを自覚さえしていれば、何に帰属しようが、どれほど多くに帰属しようが、レパートリーととらえてもよくないか。
 もちろん、帰属しきれない自分の部分もあるわけで…そこも注意深く見ておくことだ。