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桜と絵本と豆乳と

まったく違っていたのではないか

2016年02月19日 | 読書
 『普通の家族がいちばん怖い 崩壊するお正月、暴走するクリスマス』(岩村暢子 新潮文庫)


 プロローグを読み始めたときから、なんだか不快な気分に陥った。
 この本は、正月やクリスマス時の主に食卓について調査した結果と考察が書かれている本であるが、徹底して主婦たちの声を載せることで現実を見せつけている構成となっている。

  子どもが中学生、高校生になってもサンタクロースを信じさせようとしている親や、正月の御節に全く関心を示さない状況を、生の声で読んでいると正直「もう、いいや」という気分になって、結局総括的な第七章まで飛ばし読みのように進んだ。
 つまり、親たちが「幼稚」「自己中心」でしょうがないなあという感覚なのだが、実は、これは自分にも当てはまるのではないかといった後ろめたさも感じつつあった。

 社会経済学者の松原隆一郎氏が、解説の冒頭で書いたことがぴったり的を射ている。

 怖い本である。不快とすら、言う人がいる。どうしてこんなことを書くのか、と憤る人もいる。なぜか。多くの人がそう思いたくない自画像が、ここには書かれているからだ。


 この調査の中には座談会が含まれていて、そこでの発言がまた怖い。
 「うるさい親にはなりたくない」「語らない親」と名づけられた章には、例えば、学校からのお知らせにあることは「書いてあるから、ウチでは話さない」「授業中に教えられたみたいだから、言わなくてもいいと思う」という、連携などという美しい言葉の底部がどうなっているのか、明確にわかる一節もある。

 その点とも通ずるが、著者が「子供の『目線』で見るならば」と前置きして語った次のような母の存在である。

 現実を見ない母
 事実とは異なることを平然と語る母
 言うことがすぐ変わる母
 現実に自分が行っていることとはかけ離れた考えや展望を語る母



 こうした母、主婦の登場に、教育が無縁であるわけではない。
 さらに、著者が調査対象者そのものに関する見解を書いている部分は、教育に携わる者ならば心して聞かねばならない。

 近年多くの対象者が「本当にそうであること」より、「そう答えるのが正解だと感じること」を答えるようになってきている

 つまり、自分が見えなくなっている人間…表現重視や「自分探し」のベクトルは、まったく違っていたのではないかという気がしてくる。