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同僚性にある陥穽

2016年02月21日 | 雑記帳
 昨秋だったろうか、校長会研究班の一つからアンケート依頼があった。年に何回かはあり珍しくもないが、その時は少し戸惑った。テーマは校内研究体制推進であり、そのキーワードとして「同僚性」が挙げられていた。校長と同僚性という結びつきに、どうもしっくりこない感覚があり、明確な回答が出せなかった。


 単純に言えば、校長がリーダーシップを発揮し、様々な手立てをとって、職員の同僚性を高める手法について考えればいい。しかし、その道筋そのものに違和感を持ってしまう。それは「同僚」という言葉そのものにこだわっているだけなのかもしれない。そんな思いを持ちつつ、ネットで見つけたある論文を読んだ。


 「同僚性」に持っていたイメージは、「学びの共同体」で著名な佐藤学氏がよく口にするなあという程度だった。この論文でも「その定義や機能に関して明確な統一見解はない」と記されている。そして、自分のしっくりこない感覚を見事に言い当てたのは、「同僚性」と対比される概念として「形式的」があることだった。


 「同僚性モデルは形式的モデルより」「形式的連携を越えた、『同僚的』連携」といった記述がみられ、結論部分ではこんなふうに位置づけられている。「教育現場における問題解決には、(略)形式的・官僚的モデルではなく、同僚型・参加型・分散型リーダーシップが有効であり」…予想された結論だが、現実は厳しい。


 教育研究の場においても「上意下達」的な現状はあるし、その点を棚上げした物言いのようなイメージが拭えない。そのためのミドルリーダー養成だ、と言われそうである。確かに有効な一つの手立てと言えよう。しかしそれも「『仕組まれた同僚性』の強制」といった姿に陥らないように意識し続けられるか、だろう。