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うしなって、得る。か

2016年02月02日 | 雑記帳
 ある雑誌に、モデルの押切もえが「うしなって、得るもの。」と題して、川上未央子の小説の書評を載せていた。内容はともかく、よく使われるこの表現が、先日録画を見たNHK「ドキュメント72時間」の特集で、ある女性が語っていたことと重なった。確か名古屋駅の拾得物センターの三日間を記録した回である。


 ダイヤモンドの指輪を落としてしまった女性が問い合わせに来て、そして翌日また確かめにきた。結婚記念であったその指輪を無くしたショックはかなりのようだったし、家へ帰って夫に話したとき当然ながらびっくりされたという。しかし責める言葉を発せられなかったことに、女性はその表現を使ったのである。


 言うまでもなく、愛情の証として贈られた指輪を失ったが、その顛末を話した時の夫の受け止め方に深い愛情を感じたということだろう。美談的に語られるこうした多くの出来事は、つまり「モノよりココロ」もしくは「失敗、衰退から学ぶ」といったパターンである。しかし、「得る」ためには少しばかり考えがいる。



 偶然ではあるが、夏のオリンピックがある年つまり閏年は、自分にとってエポックになっていることを以前から感じていた。今年に限ってはもう3月末に退職が決まっているので、とうとう来たか2016年、と思った。しかしエポックとして「うしなって、得る」ためには、受け入れ、そして舵をきる決断も必要か。


 実家で正月を一緒に祝った母が数日後に入院し、半月あまり後に逝ってしまった。こればかりは「うしなって、得る」と言い難い出来事で、親孝行できなかったゆえに、身に沁みる思いも少なくない。齢を重ねることがそのまま「失う歴史」になってきた今、量的に得ることより質の変化に沿う精神に向かい合いたい。