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言葉を残すという愛情

2016年02月10日 | 読書
 変な題名の詩集だなと思い、手に取ってみた。

 『学校は飯を喰うところ』(曽我貢誠  文治堂書店)

 ぺらぺらとめくってみたら、失礼ながらちょっと自分には向かないかなと思い、戻しかけた時に「あとがき」(実際には「詩集に寄せて」と題した寄稿だった)の喜岡淳治氏(成蹊大学)の名前が目についた。

 授業づくりネットワークの集会などで何度かお見かけし、論文などを読んだこともある。
 そこで少し気合いが入って著者略歴をみたら、なんと秋田県出身の人ではないか。何かの縁で出会うことも読書の醍醐味だろう。


 東京のいわゆる下町の中学に、三十数年勤めた教師の述懐とも言うべき詩が並んでいる。
 その作品の質がどうなのか評価できる力量はないが、確かなのは、作者が子どもや同僚へ向ける眼差しの温かさである。

 象徴的なのはこの題名「学校は飯を喰うところ」
 なんのことか、まったく予想がつかず、どんな文脈のなかで出てくるのか検討がつかなかった。

 家庭的に恵まれない「ブーニャン」という生徒を取り上げた。
 その生徒は「学校、何しに来ているんだ」と問われ「飯食いによ」と答えた。
 その言葉の意味を反芻し、出来あがったのが表題の詩なのである。

 そこには、様々な劣悪と呼んでいい環境の中で育つ生徒に対する愛情がある。
 次の三行には生徒の言葉が示す現実を、深く思考した跡が見える。

 もしかしたら
 勉強も飯を喰うためということを
 はじめから知っていたのかもしれない



 この子だけではなく、障害を持った生徒、自己中心性が異常に強い生徒、ひどく消極的な生徒、そして、ごく普通の生徒(の悩み)…気取らず、衒わず、そのままの姿で書き表されている。
 強い感動はないが、安堵感のある詩集と言えるだろう。

 同年代だからだろうか、若い時に飲みに連れて行ってもらった先輩教師はまったく同じことを言っているものだと改めてニヤリとした。
 そこには東京も秋田もない。そしてその現実が全く変わったこともまた同じだろう。

 先輩の一言は「飲んだ次の日は 這ってでも、絶対学校に来い。」