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隠居志望者の戯言

2016年05月11日 | 読書
 4月以来「憧れの隠居生活に入ることができて…」という軽口を常套句のように使っている。7割ぐらいは本当の気持ちで、そんなふうに過ごせたらいいけど現実は…ということか。落語に出てくる「ご隠居」は、もの知りではあるがどこか長屋の住人たちには小馬鹿にされる傾向もあり、自分もそうなっていったら怖い。


 書棚整理の途中、ある一冊が目に入った。『隠居学』(加藤秀俊 講談社文庫)である。そうかあ「学」と名づけると、こんな緩いことも高尚に見えるかもしれない、と姑息な思いつきをする。しかし、待てよ。この文庫を読んだときは…と我がブログを検索してみたら、2012年の6月にメモがあり、そこにはなっなんと…


 長くブログを続けていると、時々驚くような出会いもある。これもまさしくそう通り。加藤秀俊先生からコメント欄にご挨拶をいただいたのだ。『隠居学』を読むかなり前に『なんのための日本語』という新書を興味深く読んだ記憶もあり、我が国でも屈指の社会学者の方に目を留めていただいた偶然に感謝したものだ。


 あれから4年経ち、改めて「隠居入門」を志す者であれば、もう一度この文庫をめくっていこうと決めた。「まえがき」が実に面白い。加藤氏からぽんぽんと出てくる、様々な定義づけが実に明快、痛快。膝をたたくとはこのことかと思う。

★「隠居」の特典はその無責任性にある。

★シマリのない口から出まかせ阿呆陀羅経(あほだらきょう)


 落語においてもその無責任性が展開する噺はずいぶんある。知識が繰り出されるけれども、どうにも終着駅が見いだせないということか。しかし考えようによっては、連鎖していくことの方が大事かなと思う。紹介されていたダニエル・ベルの「知識人」の定義に思わず唸った。かくありたいと願うが、道遠しだろうな。

★ニューヨークでの「知識人」とは「どんな課題があたえられても二分間の準備で十五分のまとまったはなしができること」であった