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『考える人』から考える➀

2016年05月03日 | 読書
 『考える人』2016春号

 まず、「目次」にたどり着く前頁にある4篇がとても良かった。


 「圏外写真家」という新連載で都築響一氏が、オカダキサラという写真家の作品を取り上げながら、撮ることについて述べている。
 自分も含めてブログなどに載せている素人が、ちょっと心したい文章がある。

 ★「撮れる」と「撮る」のあいだにある深い溝を、多くのひとは理解しない。

 その溝を別の言葉に置き換えると「おもしろがりかたのセンス」ということになるのか。
 磨きたいことである。



 翻訳家の金原瑞人氏のエッセイは「つぎ上手とよく言われる」という一節から始まる。
 高知出身である氏の酒席の話をきっかけに、大皿料理の取り分けのことに移り、自らの仕事と結びつけて、次のように締めくくる。

★翻訳家というのは、原作の好きな部分を、自分の好きなように母語に移すことを第一に考えている

 料理を取り分けるのは「偉い人」のすることで、分けながら一番旨いところは自分が食べるということに翻訳を重ねたのは、見事な比喩だと思った。



 宮田珠己という方が「おっさんと『かわいい』」と題してコラムを書いている。
 「かわいい」という言葉を通して、彫刻や絵などの見方について述べているのだが、ここにも納得させられた一節がある。

★どのジャンルでも本物だけが持つあの手堅い感触、旨み成分のようなものが「かわいい」のなかにも厳然と存在するはず。その成分の正体はいったい何だろうか。



 全盲のエッセイスト三宮真由子氏の「美しい声とは」のエッセイは、ここしばらく自分が考えてきたことと似ていて、深く共感した。
 それは「声が人間の本質を表す」こと。

 光を失った方の独特の感性ならば、それはおそらくより明確に感じられるのかもしれない。
 氏は、六、七年前から日本人の声が変わったと思い始めたそうである。特に女性の発声が違ってきたと書く。

★喉からまっすぐ声が出ず、声帯の端に突っかかるような「躓いた声」が多くなった気がする。

 この現象がどんなものか、まだ明確に感じ取れないが、少なくとも発音の不明瞭さは感じることが多い。
 テレビのバラエティなどのテロップが日常化していることが一面の事実を伝えているだろう。
  「躓いた声」はおそらく、何かに「躓いている」ことも表している。その意味をじっくり考える必要がある。