『授業を成立させる基本技60』(岩下修 明治図書)
岩下修先生から新刊のご著書をいただいた。
「アクティブ・ラーニングを目指す授業づくり」と副題が添えられていた。
へそ曲がりと言われそうだが、私自身は一昨年あたりから目についてきたこの「アクティブ・ラーニング」に対して、実はいい印象を持っていなかった。
それは、教育界に流布する文言そのものが、政治家がよく使うスローガン的に消費されることが多かったし、そのために振り回される教育現場の実情も見てきたせいがあるだろう。
もっとうがった見方をすれば出版業界などとの関わりも強く感じられて、どこか斜めに構えていた。
しかしそういう個人感情はさておき、「アクティブ・ラーニング」は、いや「単元を貫く~~」も「伝え合う力」も、とても重要であり、その言葉に載せて喚起できることもしっかりと把握できているつもりだ。
だからいつも、肝心なのはその捉え方であり、子どもたちの現実と照らし合わせながら、具体的な手立てを見い出すことと考えてきた。
さて、この一冊はそのためのヒント、手がかりが多くつかめることは間違いないだろう。
特に若い方々には知っていただきたいことが網羅されている。
「基本技」と題されているように、ここにある実践群のなかには教育界の中にすでに発表されていたものもある。
意図的に学んできたキャリアを持つ教員であれば、似ている内容を目にしているだろうし、実際に自分で取り入れてきたかもしれない。
しかし、この書を手に取り、その実践の意味が何だったのか、そして仮にレベルが上がらなかった反省があるとすればそれは何故か、振り返ることは価値が高いと思う。
言うなれば、すべてはアクティブ・ラーニングであったかどうか、なのである。
岩下先生は「はじめに」で、次のように書かれてある。
アクティブ・ラーニングは、講義型の授業に疑問を投げかける。活動ありきの授業に警鐘を鳴らす。大事なのは、子どもの精神がアクティブであることだと。
まさに、アクティブ・ラーニングのなんたるかを捉えている文章だと思う。
最後の一文のとらえを、自分はしっかり行ってきたか否か。
岩下先生がよく使われてきた「知的」という表現は、まさしくそのためにあったのだと、今までの著書も振り返ることができた。
個人的にこの本の肝を感じた部分は第一章にある。
この部分、特に今回のキーワードは「まなざし」ではないかと、読み始めてすぐ感じた。
そして吉本均先生の「まなざしの共有」が引用されていることに意を強くした。
ここに書かれている「技」、言い換えれば「型」や「形式」に、個々の教師が自分の願いや思いを乗せて語ったり、動いたりできるか。
それがきっと一番強くでるのは「まなざし」であろう。
まなざしの鍛えが要求されていると感じた。
岩下修先生から新刊のご著書をいただいた。
「アクティブ・ラーニングを目指す授業づくり」と副題が添えられていた。
へそ曲がりと言われそうだが、私自身は一昨年あたりから目についてきたこの「アクティブ・ラーニング」に対して、実はいい印象を持っていなかった。
それは、教育界に流布する文言そのものが、政治家がよく使うスローガン的に消費されることが多かったし、そのために振り回される教育現場の実情も見てきたせいがあるだろう。
もっとうがった見方をすれば出版業界などとの関わりも強く感じられて、どこか斜めに構えていた。
しかしそういう個人感情はさておき、「アクティブ・ラーニング」は、いや「単元を貫く~~」も「伝え合う力」も、とても重要であり、その言葉に載せて喚起できることもしっかりと把握できているつもりだ。
だからいつも、肝心なのはその捉え方であり、子どもたちの現実と照らし合わせながら、具体的な手立てを見い出すことと考えてきた。
さて、この一冊はそのためのヒント、手がかりが多くつかめることは間違いないだろう。
特に若い方々には知っていただきたいことが網羅されている。
「基本技」と題されているように、ここにある実践群のなかには教育界の中にすでに発表されていたものもある。
意図的に学んできたキャリアを持つ教員であれば、似ている内容を目にしているだろうし、実際に自分で取り入れてきたかもしれない。
しかし、この書を手に取り、その実践の意味が何だったのか、そして仮にレベルが上がらなかった反省があるとすればそれは何故か、振り返ることは価値が高いと思う。
言うなれば、すべてはアクティブ・ラーニングであったかどうか、なのである。
岩下先生は「はじめに」で、次のように書かれてある。
アクティブ・ラーニングは、講義型の授業に疑問を投げかける。活動ありきの授業に警鐘を鳴らす。大事なのは、子どもの精神がアクティブであることだと。
まさに、アクティブ・ラーニングのなんたるかを捉えている文章だと思う。
最後の一文のとらえを、自分はしっかり行ってきたか否か。
岩下先生がよく使われてきた「知的」という表現は、まさしくそのためにあったのだと、今までの著書も振り返ることができた。
個人的にこの本の肝を感じた部分は第一章にある。
この部分、特に今回のキーワードは「まなざし」ではないかと、読み始めてすぐ感じた。
そして吉本均先生の「まなざしの共有」が引用されていることに意を強くした。
ここに書かれている「技」、言い換えれば「型」や「形式」に、個々の教師が自分の願いや思いを乗せて語ったり、動いたりできるか。
それがきっと一番強くでるのは「まなざし」であろう。
まなざしの鍛えが要求されていると感じた。