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やっかいになる「叱りの成立」

2016年05月28日 | 雑記帳
 ネットマガジン(当時は6000人以上の購読者がいたように記憶している)に書いた『「叱り」の成立』という原稿には、珍しく反応があった。

 一つは嬉しく有難いことだった。
 愛知県のある教育サークルがその原稿を例会時の資料として使ったという情報が載っていた。
 その討議内容は明らかにされなかったが、提案として材料にされる価値があったことは素直に喜びたい。



 もう一つはあるメールが私個人アドレスへ寄せられたことだ。
 短い文面であったが、この一言は覚えている。

 「あなたのような教員が、戦後教育を駄目にした。」

 詳しい説明はなかった。結局のところ「体罰」についての見解の相違であるようだった。腰がひけていると考えられたのかもしれない。

 私は一瞬ごく素直に「そうなのかもしれない…」と受け止めた。
 「戦後」という括りはずいぶんと重いし、教員の多くが私と同様だとは思わないが、歴史的な変遷における一つの典型として、その方はとられたのだろうか。

 ただ私はそれ以上に、そのメールが匿名であったこと、そして返信も叶わない方法であったことが残念だという気持ちを強く持った。

 私に対するメールは、その方がもし私より年配者であったとすればある意味で「叱る」行為とみることもできると思うが、最終的に叱りは成立しなかったと言える。
 もし逆に若い世代であれば、その責任の一端は間違いなく「戦後教育」にあるから、一面で批判はもっともなことだと自嘲めいた考えにもなった。


 いずれにしても、批判、評価するのは構わないが、匿名であることは問題に対する当事者性を欠いているといっていいだろう。
 おそらく対象である私との関係に利害関係が生ずる場面もないはずだ。

 とすれば、そこには批判をして自分だけが気持ちよくなればいいという幼児性が見え隠れする。

 結局、匿名であることは、「叱られる側」になる可能性も排除する、もしくは低く抑えることになる。
 人同士のコミュニケーションという大きな問題になってしまうが、特にこの問題について「顔が見えない」ことは決定的なのである。


 この匿名者を「叱る」ことができ、それを成立させられる人間は周りにいるのか。
 この匿名者にはどんな言葉が伝わっていくのだろうか。

 社会の変化が、「叱りの成立」をますますやっかいにしていることだけは確かなようだ。