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『暮しの手帖』の叱り方は…②

2016年05月26日 | 読書
「叱り」の成立~『暮しの手帖「叱る!!」保存版Ⅱ』(暮しの手帖社)を読んで

昨日からの続き

 結局「叱り」は、叱られた側によって成立するのではないか。

 どんなに激高してみても、言葉をていねいに尽くしても、受けとめる側にとっては、単なる「怒り」であったり「ムカツキ」であったり「繰り言」にしか思えないこともある。
 その場の状況によって違いもあろう。また時には、受けとめる側の感性の育ちに問題となる場合もあるかもしれない。


 「叱り」の成立に向けて、いわば叱る立場の教員である私は大きく二つのことを考えてみた。

 一つは、相手とのつながりである。斎藤学氏は言う。

 叱ることが効果を持つには叱る相手に関心を持たなければならない。人に関心を持つとはその人を愛しているということである。(P60)

 学校・学級という集団の中で、一定の時間を共に過ごすことは有効ではあるが、一緒にいればそれだけでつながるほど甘くはないはずだ。
 ごく当たり前のことではあるが、声をかける、話す、共に作業するなどの、日常的でしかも意図的な積み重ねによってしか、つながりはできない。

 話は広がるが、地域社会の中で「よその子を叱ることができるか」という話題が出てくることがある。
 これは実はよその子に対して愛情を注げるかという問題なのである。
 叱るという行為の弱体化は、そのまま愛情の不足という言葉に置き換えてもいい。

 もう一つは、叱り方を貫くことである。

 多様な叱り方があり、それを学ぶことも必要かもしれない(ロシアやイギリスの叱り方の紹介もあり、これらも実に興味深かった)。
 しかし、人にはその人なりの叱り方があるように思う。
 一番似合う方法、その人が自分のエネルギーを出せることが肝心だ。子どもに届くのは結局のところ、他者のエネルギーではないか。あまりにも方法や技術にこだわると、エネルギーが弱くなる気がする。

 とすれば、時に暴力的な行為となる可能性を否定できないだろう。
 しかし学校という公的機関の指導者として、その選択は失格である。自戒をこめてそう言い切る。

 多くの場合「叱る」は非日常的である。
 その行為が日常の言動としっかり重なり合っているか、そうでなければ、例外として認めていいほどの事情や都合があるのか、叱る教師を見つめる子どもの目は案外そんなところを判断しているかもしれない。

 二十数年前の自分の行為は失格だった。ただそれが「叱り」になったかは、Sが決めてくれたはずだ。
 そしてそれによって評価されるのは、実は学級づくりそのものである。

 (再録、ここまで)


 少し端折った感じもするが、基本的にその時と考えは変わっていない。
 教師が意図的に叱るとき、その叱りが成立するかどうかは吟味しなくてはいけないし、基盤ができているのかと常に問い続けることが必要なのだ。
 それから今改めて読むと、堀裕嗣氏が提唱している教師のキャラクター分析につながる要素も含んでいるなあ、と少し感じる。

 さて、この原稿がなぜ印象に残っているかと言えば、若干の反応があったことと、「叱り」について雑誌等に書いた経験とつながるからだろう。

 そのことは明日以降に触れたい。